第7話 廃位の朝議
朝の報せは、早かった。
まだ屋敷じゅうが朝餉の支度の匂いを立てていた頃、門に早馬が止まる音がした。下人が慌ただしく取り次ぎにくる。父は朝餉の箸を置いたまま、しばらく動かなかった。それから、静かに立ち上がり、書斎へわたくしを招いた。
紙の束は、都の知人の手で運ばれてきた、朝廷の議事の控えだった。正式の公示ではない。出入りの役人の筆の覚えを、父の代から付き合いのある家が、急いで写して寄越したものだった。
父は、束を一枚ずつめくった。わたくしは、父の肩越しに覗いた。
「……皇后様の失徳、立ちました」
父の声が、いつもより低かった。
「同議で、宰相様の公金の件も、糾問の動議が出たとあります」
「ふたつが、一度に」
「ふたつが、一度に」
父は、紙の縁をつまんで畳み直した。
「証言書は、朝廷の側が、独自に揃えた系列のようだ」
「……独自に」
「女官長様の、直の筆の届けだ。押収の茶葉の木箱が、皇后様のお房にあった——出入りの帖面と、夜半の房掃きの者の証言が合わさって、書式の上で立っている」
わたくしは、父の書斎の机の、抽斗の、奥のほうへ、目をやった。
父が、こちらに背を向けたまま、言った。
「——紅家の紙は、まだ、抽斗の奥にある」
「……はい」
「出さずに、済んだ」
父は、紙束を閉じて、机の端に置いた。
出さずに済んだ。——紅家が、何も、差し出さなかった。
何かを、差し出さなかったことが、どうしてこんなに、胸の底に重く沈むのかを、わたくしはすぐには説明できなかった。
目立たぬところで、女官長様の筆が動いていた。香月が名を連ねてくれた三人のほかに、わたくしの知らぬところで、もう何人もの女官が、長い時間をかけて、書式を作ってくれていた。——知らぬことだった。
(……ありがとうございます)
誰に向けて言ったかもわからない礼を、わたくしは、自分のなかで、そっと折り畳んだ。
* * *
昼過ぎ、門に別の使いが立った。
内廷の侍従の服装だった。朝の知らせの続きかと父が眉を寄せたが、侍従の手には、公文書の布はなかった。薄い、灰がかった紙を、簡素に折ったものを、両手で捧げていた。
「陛下より、紅家当主様の御前にて、お渡しせよ、との仰せでございます」
父と玄関に並んだ。
父が受け取り、紙を開いて、短く目を走らせた。読み終えて、わたくしに、無言で手渡した。侍従は、一礼して門へ退いた。
紙の折り目が、前より少なかった。書き直しの跡が、ほとんどない。ただ、墨の濃さが、行ごとに違った。筆を置いて、また取って、時を置いて、書き継いだのだと、紙のほうが先に語っていた。
『朝議のことは、やがて公示となる。
朕としては、詫びる言葉を持たぬ。
——私として、お前に、ひとつだけ、願いがある。
妃の位ではなく、
あなたの隣を、私にください』
読み終えて、紙を持つ指が、ひとつ、跳ねた。
父が、わたくしの手もとを見ないようにしていた。
「——お父様」
「うん」
「……茶室に、下がります」
「ああ」
わたくしは、紙を袖に入れずに、両手に挟んだまま、玄関を退いた。
袖に入れてしまえば、またいつもの手紙と同じ場所に収まる。そうしたくない、と、体のほうが先に判じていた。
* * *
【幕間・皇帝】
朝議の後、私は、執務室の窓の前に立っていた。
女官長からの文は、朝の前に届いていた。房掃きの者たちの筆も、揃っていた。紅家の名は、最後まで、どこにも出さずに済ませた。あの娘が、何も差し出さぬままで済むように、こちらで段を組んだ。
それで、——私は、ようやく、あの娘の前に、手ぶらで行ける気がした。
手ぶらで行く、というのが、皇位にあって、いかに難しいことか、私はこのたびで、生まれて初めて知った。
机の上に、朝のうちから、灰がかった紙を、並べていた。書いては、畳み、また開いて、直した。政務の端数の書類よりも、時を食った。
詫びると書きかけて、消した。戻れと書きかけて、消した。——朕は、と書きはじめて、朕では、この文は、届かぬと気づいた。
書き終えたときには、日が昇りきっていた。
侍従に、渡した。
——届いたのだろう。
私は、窓の外の、春のまだ早い光を見ていた。あの娘が、まだ、私の名を口にしていない。口にしないままで、私の名を知っているということを、私は、この四日で、ようやく飲み下した。
机の端に、冷めた茶杯がひとつ、置いてあった。
自分で淹れたものだった。
* * *
茶室に下がった。
父が、廊下の障子を閉めながら、「夕餉は運ばせぬ」と、短く言った。訊かれたわけではない。わたくしの顔を見て、それだけを言って、下がっていった。
釜に水を張り、火を熾した。
畳の前に、紙を置いた。
『妃の位ではなく、あなたの隣を、私にください』
ひと晩、この行と向き合うのだろう、と思った。
——隣、とは、どこのことだろう。
妃の房ではない。執務室でもない。城の中でも、城の外でもない、——この、ひとの隣、という場所のことを、わたくしは、長く考えたことがなかった。十年、わたくしは、あの方の机の右端、筆立ての少し手前に、茶杯を置き続けた。あれは、隣ではなかった。距離を取った、位置だった。
隣は、もっと、近い。
釜の湯が、沸いた。
沸いた湯を、茶葉に落とさず、別の器に移した。器の湯を、縁からそっと流して、庭の草に染ませた。
釜に、新しい水を張った。
火を、絞らずに、また沸かしはじめた。
湯がむだになる、と、昼のわたくしなら、叱っただろう。夜のわたくしは、叱らなかった。釜の湯を、いま落として、いま出したくなかった。沸かして、冷まして、また沸かし直す。そのあいだに、答えが、出そうな気がした。出なかった。また沸かし直した。
紙を、畳の上に置き直した。墨の行の向きを、蝋の明かりの向きに合わせた。何度か、読み返した。文字を追うたびに、行のあいだに、ちがう空気が入った。
気がつくと、障子の向こうで、低い足音がしていた。
父が、縁側に、座っていた。
何も言わなかった。声もかけなかった。
わたくしも、声をかけなかった。
釜の湯が、また、沸きはじめた。
* * *
未明の風が、一度、強く吹いた。
茶室の蝋が、ひとつ、消えかけて、わたくしは灯し直した。
紙は、まだ、畳の上にあった。
まだ、返書は、書けていなかった。
父は、縁側で、同じ場所にいた。袖のうえで、白髪の端が、微かな朝の気配を受けて、薄く、動いていた。
東の障子が、白み始めた。
わたくしは、筆のほうには、まだ、手を伸ばしていなかった。
ただ、釜の湯が、何度目かの沸く音を、茶室の中に、立てはじめていた。
昨日の湯でも、朝の湯でもない、いまの湯の音だった。




