第6話 隣国の視線
宿舎の格子窓の外で、都の夜鴉が一度だけ鳴いた。
私は卓の上に、陛下への謁見で取り交わされた覚え書きを広げ直していた。五日の滞在で、両国の役人は型通りの言葉を幾度も重ねている。型通りのことは、型通りに進んでいる。問題は、型の外にあった。
——あのお方は、お疲れだ。
玉座に座したあの青年帝の、眉のうえに、以前にはなかった薄い翳りがある。声の張りが、昼過ぎになると、わずかに下がる。
過日の謁見で、私は一点、粘ってみた。関税の端数の扱いだ。本来ならば、あのお方はひと息で退けるだけの話だった。あのお方は、退けかけて、戻って、また退けた。——判じるのに、ふたつ手間がかかっておいでだった。
私のような他国の人間は、これを見逃さない。見逃してはならないのが、私の職である。
卓の端に、古い帳面が一冊、置いてあった。出立の前、荷物をまとめる段で、本棚の奥から引き出してきたものだった。若い頃の私の手で、茶会に出た折の覚えが書き残してある。
頁をめくった。
——紅家、春の茶席。
会主の名の隣に、小さな字で、別の名が書き足されていた。
『紅 蘭蘭。会主の御息女。——湯の落とし方を、見て覚えた』
そう、あの娘の指を覚えている。十二の齢だったろう。湯を細くひと筋で落とすやり方が、会主と同じだった。あのとき、隣に座った我が国の老茶師が、私の袖をそっと引いて言ったのだった。「あの娘は、茶葉に耳を澄ます」と。
帳面を閉じた。
「書簡を一通」
控えていた副官に、私は命じた。
「紅家当主宛に。礼状の体で。簡素に」
「……礼状、でございますか」
「過日の茶会の礼を、今更ながら、と」
副官が頷いた。訊き返さないのが、副官の良いところだった。
——あの娘が、いまどこにおられるか。
それだけ、確かめたかった。
* * *
昼、紅家の書斎に、都から文が入った。
父は文を広げ、しばらく無言だった。
「……使節は、桂の方々か」
「はい」
「条約協議が始まると」
「はい」
父は文を畳み、脇に置いた。そのとなりに、茶事院の名簿を引き寄せた。古びた綴じだった。去年のものでも、十年前のものでもない、もっと古い年の綴じ。
頁を繰る指が、途中で止まった。
「……ここに、李 澪とある」
指を、その名の上に置いた。
「覚えがあるか」
「名は、見たことがございます。公文書のうえで」
「昔、紅家の春の茶席に見えた」
父は、もう一度、指でその名をなぞった。
「お前が、客のために、初めて湯を落としたのが、あの席だった」
わたくしは、父の指の先を見ていた。
「——覚えておりますか」
「覚えております。お父様から雲南の春茶を、軽めに、と言い渡されました」
「あの席に、桂の若い官吏が、一人だけ混じっておられた」
父は、名簿を閉じた。
「同じ人が、この春、都においでになる」
わたくしは、茶杯を、そっと置き直した。茶は、もう飲み終えていた。
父は縁側のほうへ目を向けた。庭の梅は、ひと枝だけ、花を半分ほどにほどいていた。
「——蘭」
「はい」
「戻るのなら」
父は、庭を見たまま、言った。
「妃としてでは、戻るな」
「……お父様」
「紅家の茶師として、戻れ。家の格で、戻れ。お前の一杯は、お前一人のものではない。紅家が代々、湯の落とし方で積んできた格がある。それを、宮のなかに、もう一度、据え直してこい」
庭で、小さな鳥がひと声、鳴いた。
「……戻るとは、まだ、決めておりません」
「わかっている」
父は、こちらを見なかった。
「ただ、戻るのであれば、の話だ。戻らぬ道も、家としては、支度してある」
「……支度」
「娘をひとり、戻して静かに暮らさせるだけの支度なら、とうにできている。戻すのでも、戻さぬのでも、家は困らぬ」
父は、そこで初めて、こちらを見た。
「お前が困らぬ道を、家の格で、支える」
何か、返そうと思った。返す言葉が、すぐには出てこなかった。
わたくしは、袖の内で、指先を合わせた。——昨夜、畳んで仕舞った薄い紙の端が、袖の中にあった。指の腹で、折り目を、ひと筋、確かめた。
父は、それ以上は言わなかった。
* * *
夕刻、門に使いの者が立った。
下人が取り次いできたのは、外つ国の紋の入った布でくるんだ、薄い書簡だった。封がきちんと閉じてあった。前の勅使のものより、ずっと小ぶりだった。
受け取って、玄関の上がり口で開いた。父が、隣に立った。
書式が、ひどく簡素だった。儀礼の枕詞もなく、用件だけが、静かな墨で書いてある。
『過日の春の茶席にて頂戴いたしました一杯の礼、今更ながら申し上げたく、筆を執り候。
当分、都に滞在いたします。
桂国 外交長 李 澪』
ひと呼吸、長く、息を吐いた。
——覚えていらっしゃるのだ。
隣で父が、ゆっくりと頷いていた。
「返書は」
「……いたしません」
「そうか」
「お受け取りしたとだけ、使いの方に、お伝えください」
「うむ」
下人に、そう伝えるよう言い、父と玄関を退いた。
廊下を進むあいだ、父がぽつりと言った。
「——返さぬという返事も、返事だ」
わたくしは、頷いた。
返書をせぬことの重さを、李澪殿であれば、わかる方であろうと思った。書式をあれほど落とした簡素な便りを寄越せるのは、書簡の常を知り尽くした方だけだった。
書斎の前で、父と分かれた。
自室に戻って、袖から手紙を抜いた。昨日までと同じ折り目で、きちんと畳まれていた。机の抽斗の奥に仕舞い、上から、何も書いていない薄紙を一枚、被せた。
春の夕の光が、障子を透して、机の木目にゆっくりと滲んでいた。
どこかで、鍋の音がした。下女が、夕餉の支度を始めていた。
わたくしは、机の前に座ったまま、しばらく、立てなかった。
* * *
【幕間・後宮】
皇后の房の前で、女官長は足を止めた。
夜は更けている。定められた刻限の、定められた検分だった。月に一度、皇后様以下、妃の房の内を、女官長が調える。葉や燭の備えに不足がないか、虫が湧いていないか。形式の儀だった。
形式であるから、省くことはできない。
房の内には、すでに皇后様の姿はなかった。夕餉のあとに別殿へ移られた。女官が二名、灯りを増やし、畳の四隅を掃きはじめた。
「——ご検分、始めまする」
女官長の声は、低かった。
棚を見、筐を見、燭台の蝋の量を確かめた。葉櫃の内をひとつずつ検め、花瓶の水を指で触った。
房の隅に、白布で封じられた木箱が、置いてあった。
札に、女官長自身の筆で、『淑妃殿下より押収の葉』とある。
女官長は、札の前で、立ち止まった。
本来ならば、この箱は、押収のあと、厨の奥の物置に収めるのが決まりだった。どうしてこれが、皇后様の房にあるのか。女官長は、出入りの記録を、すでに調べていた。
「……検分のため、封を、解きます」
女官が、白布の結びを、ゆっくりとほどきはじめた。
結びの端が、畳の上にはらりと落ちた。
灯心が、ひとつ、揺れた。




