第5話 女官の証言
朝の奥の間に、香月が膝を折っていた。
紅家の女が出してきた白湯の湯気が、畳の目の上で低くのぼっていた。香月は湯呑には手を触れず、袖の内に両手を納めたまま、こちらの足元を見ていた。
四日前、雨夜の縁側で戻された空の茶杯のことを、わたくしはまだ心のどこかに置いていた。底の温度の感触を、意思の外で、ときおり指先が思い出した。そのたびに、別の手仕事に紛らわせて、やり過ごしていた。
畳越しに見る香月は、後宮にいた頃より、ひと回り痩せたように見えた。目の下に、うっすらと青い影があった。
「よく、来られましたね」
「……お暇を、いただきました」
「無理は」
「ございません」
無理はあったはずだった。それを言わせないだけの作法は、香月の身についていた。わたくしもそれ以上は訊かなかった。
廊下の奥で、父の咳払いが短く聞こえた。見届けの意味だろう。奥の間には入ってこなかった。
香月は袖から、白い紙に包んだものを出した。わたくしの前に、両手で置いた。
包みを開くと、薄紙が一枚。その繊維のあいだに、茶葉の薄片がひとひら、貼り付けられていた。
嗅ぐまでもなかった。あの春、雲南の。——わたくしが、最後に厨へ収めたものだった。
「……これを」
「お返し、ではございません」
香月は顔を上げず、続けた。
「告発の折、厨より押収されました茶葉の木箱が、女官長様の封のまま、皇后様のお房にお運ばれになりました。……夜半、房掃きの折に、蓋の下より、茶葉の香りが、立ちまする」
わたくしは、茶葉の薄片の貼られた薄紙から、指を離さなかった。
「夜の房掃きには、女官が三名、交代で入ります。みな、その香りを、嗅ぎ覚えてございます。……お名を、ここに」
香月は、もう一枚、折りたたんだ紙を差し出した。
開いた。
三つの名が、連ねて書かれていた。どれも見覚えのある名だった。わたくしが側妃の位にあった頃、朝夕に廊で会釈を交わした女官たちだ。
胸の奥で、何かが、ことりと動いた。音はしなかった。
「……ありがとう」
声を落として、言った。
「これを、どうなさいますか」
香月の声が、わずかに上擦った。
わたくしは、紙を畳み直した。元の折り目を外さぬように、丁寧に。
「——朝廷へ出すか否かは、わたくしが、決めることではありません」
香月の目が、初めて、わたくしを見た。
「紅 蘭蘭として、わたくしは、これを預かります。紅家の当主は、父でございます。朝廷への道筋は、紅家の判じに属します。わたくしは、家の娘として、これを父の手に渡します」
「……はい」
「あなたのしてくださったことは、わたくしが生きているあいだ、忘れません」
「お嬢さま」
香月は、袖で目を隠した。
わたくしは、それを見ないふりをして、湯呑のほうへ手を伸ばした。白湯は、ぬるくなり始めていた。
* * *
香月を奥の間に預けて、わたくしは紙束を父の書斎に運んだ。
父は机の前で、筆を止めた。紙を開いて、無言で、長く見た。それから、机の抽斗の内側にある、さらに薄い紙の束の奥にそれを収めた。
「——お前は、どうしたい」
父が訊いた。
「わたくしは、決めません」
「決めぬのか」
「決めぬのではなく、決めることではない、と」
父は、軽く目を伏せた。
「そうか」
「朝廷にこれが立つとしても、立たぬとしても、わたくしは、妃に戻りません。それとは、別の話でございます」
「わかっている」
父はそれきり、何も訊かなかった。抽斗を、そっと閉めた。
書斎を出るときに、襖の向こうで父が小さく息をつく気配がした。年老いた息の出し方だった。
* * *
昼前、門に使いの者があった。
朝廷の紋の入った布でくるまれた小さな箱と、書状が一通。
下人が中庭まで運んできたものを、父の隣で受け取った。
使者は、前の勅使よりずっと若かった。箱を渡すと、短く一礼して、そのまま門を出ていった。中庭は、春のまだ薄い日差しの下で、土の匂いがした。
箱の蓋を、父が開けた。
白磁の茶杯、ひとつ。
湯の残りで内側に茶渋が薄く輪になっていた。注いだあと、すぐに運ばせた気配だった。ひと口だけ口をつけた跡があり、縁の端が、ほんのわずか濡れていた。
父が、わたくしを見た。
書状は、公文書の体裁を取っていなかった。薄い紙に、筆で直に。封もなく、端を二つに折っただけの簡素なものだった。
開いた。
折り目が、いくつも、重なっていた。一度畳んで、また開いて、書き足して、また畳んだのだろう。指の跡が、薄紙の縁に残っていた。
『自分で淹れた。
不味いと思う。
お前が、毎朝、何を見ていたのか、知りたいと、思いはじめた』
それだけだった。
読み終えて、わたくしはしばらく、手紙の端を指で摘まんでいた。折り目が、じかに指に伝わった。
父が、茶杯の中を覗き込んだ。
「……これは、渋かろうな」
「渋うございますね」
「飲むのか」
「頂きます」
縁側に移した。父と、ふたり並んで座った。茶杯を父と半分ずつ分ける器が、下女の手で足された。茶は、すでに冷めかけていた。
ひと口、飲んだ。
——渋い。
舌の奥で、葉の量が、配合を無視して暴れていた。湯の温度が高すぎたのだろう。葉を入れてから落とすまでの間合いも、短かった。手早さが、裏目に出ている茶だった。
——あ。
笑いが、先に出た。
喉の奥で、ふ、と、短く。
父が、ちらりとわたくしを見た。咎めなかった。目の縁が、少しだけゆるんだ。
「お父様、この配合で、湯をあのお熱さで落とされましたら、葉が、びっくりいたします」
「ふむ」
「茶葉にも、心の準備がございます」
「……そうか」
父が、ひと息、短く笑った。父の笑う息を、わたくしは久方ぶりに聞いた。
——これは、謝罪のおつもりなのだろう。
下手に淹れて、下手に寄越して、下手な手紙を添えて。
手紙の最後の行を、わたくしは、もう一度読んだ。
『お前が、毎朝、何を見ていたのか、知りたいと、思いはじめた』
読み終えて、袖に収めた。
縁側の板に、春の日が、斜めに差していた。茶杯の縁の濡れ跡が、日の端で、ほんの少し、光っていた。
わたくしは、もうひと口、渋い茶を飲んだ。
二口目は、不思議と、一口目ほど渋くはなかった。
* * *
【幕間・皇后】
灯心のまわりだけが明るかった。
女官を下がらせた房で、私は、自分の手で、湯を注いでいた。
木箱は、隅に置いてあった。封の白布は、もう、きれいに掛け直されていた。押収のまま触らぬ、というのは表向きで、夜ごと、私はこの箱から、葉を少し取っては、自分の卓で湯を落としていた。
——毒など、入っていない。
そのことは、最初から、私が一番よく知っていた。入っていないと知っていて、私はあれを、毒だと言った。
蓋を開け、指で葉を摘まんだ。
あの娘が、毎朝、陛下の前に置いていた葉だった。同じ葉だ。同じ壺の、同じ棚の。なのに、私が落とす湯を入れると、色の出方が、違う。
今夜も、違った。
濃くも、薄くも、できる。葉の量も、湯の熱も、調えられる。調えて、飲んだ。
——何が、違うのだろう。
私は、自分の茶杯を、指で撫でた。
葉でも、湯でもない何かが、あの娘の淹れた茶と、私の淹れた茶とを、分けているのだった。
「……何が、違うのかが、わからない」
誰もいない房で、私は、声に出して言ってしまった。
言ってしまったあとで、それが、どれほど危うい言葉だったかに、遅れて気づいた。
灯心が、ひとつ、短く弾けた。




