第4話 雨夜の障子越し
雨の音が、わたくしを縁側に引き止めていた。
夕刻の裏門に立っていた人のことを、夜が深くなっても、まだ考えていた。考えないつもりだったのに、考えていた。灯りを絞った部屋の隅で、茶器の縁を指で撫でてみて、縁の冷たさで、自分が黙って起きていることに気づいた。
雨は、はじめは屋根を軽く叩き、やがて板庇を下る筋になった。風はなかった。まっすぐ落ちる雨だった。
遠く、裏門のあたりで、犬がひと声だけ吠えた。それで止んだ。
障子の向こうに、足音が近づいてきた。
父だった。
「——蘭」
わたくしは立ち上がった。
「……来ておられる」
父はそれだけを言った。わたくしは名を尋ねなかった。父も、誰とは言わなかった。
「お通しに?」
「裏から直にお連れするのは、——」
「ええ」
言外が通じた。表からはお通しできない。裏からお通しするには、それなりの格がある。父の声が、父の立場のところで、かすかに揺れていた。
「縁側で、障子越しなら、お話を伺います」
「会わぬのか」
「会いません」
父は頷いた。反対しなかった。
「茶を、わたくしが」
自分の声が、自分でも少し遠く聞こえた。
「雨の夜の冷えに合う配合を。——わたくしが、淹れます」
父は、もうひとつ頷いて、下がっていった。
* * *
厨へは、下女を呼ばずに下りた。
炭がまだ赤く残っていた。深夜の厨房は、朝の厨房とは匂いが違う。昼のあいだ熾されて、夜半に落ち着いた炭は、香りが少し締まる。鉄瓶の湯は、あと少しで沸く音を立てていた。
雨の夜の冷えに合う配合。——福建の冬茶をごく少なめ、棗の実をひとつ。
棗は、父が紅家に蓄えてある備えだった。ひと晩を凌ぐ客が来たときのために、昔から用意してある。そういう客が、本当にある家だとは、わたくしは出る前は知らなかった。
——お体を温めるには、薄く、長く。
指が、そう動いていた。
何を淹れているのかを、途中で気づいた。
(……気をつけなさい、わたくし)
自分を自分で叱った。
配合を変えようとした。変えられなかった。指が、わたくしの意思より先を歩いていた。
温めた湯を、茶杯にゆっくり落とす。棗の実がひとつ、湯のなかで、横になって、それからゆっくり浮いた。
盆に載せ、白布を添えた。
盆を持ち上げるときに、腕の力がいつもの朝より少し強く入った。気づかないふりをした。
* * *
座敷の障子を閉めて、わたくしは縁側の畳に膝を折った。
父が裏から客を案内してきた。座敷の向こうで、短く何かを言い、すぐに下がっていく気配がした。
被衣は、外していたようだった。——縁側に座した気配の高さで、おおよその背丈がわかった。
しばらく、雨の音だけが聞こえていた。
わたくしは、膝の上で、両手を重ねていた。
「……蘭」
雨の向こうから、ひとつ、呼ばれた。
声のつくりで、もう、確かめる必要はなくなった。
「はい」
短く応じた。
障子の向こうで、息を吐く気配があった。しばらく何も続かなかった。雨が、二人分の沈黙を埋めた。
「顔を見せてくれとは、言わない」
「ええ」
「——戻ってきてくれないか」
わたくしは、障子を見ていた。紙の繊維の目を、なぜか、数えようとしていた。
「お断り申し上げます」
「……そうか」
沈黙があった。
「朝の茶を、——淹れる者が、いない」
「女官長がおられます」
「違う」
「皇后様が」
「違う」
続きは、言わなかった。
雨が、少し強くなった。
「お前は、十年、毎朝、何を考えていた」
わたくしは、すぐには答えなかった。
「……飲まれるお方のことを、考えておりました」
「それだけか」
「それだけでございます」
「——そうか」
長い沈黙があった。雨が軒先の瓦を打つ音だけが、数を増やしていった。
「朕は——」
言いかけて、その人は止めた。
「私は」
言い直した。
「私は、十年、お前が毎朝、何を考えていたのか、一度も尋ねたことがなかった」
障子の向こうで、何かをゆるめる気配があった。肩の力でも、抜いたのだろうか。
「朝の茶を、ただの習慣だと思っていた」
声が、低かった。
「違った」
「——」
「違ったのだと、気づくのに、十年、かかった」
わたくしの指が、膝の上で、結ばれ直した。
「お茶を、お淹れいたしました」
わたくしは、盆をそっと縁側の障子際に押した。障子の下の隙間から、盆の縁が向こうへ滑った。棗の、淡い甘い匂いが立った。
向こうで、盆を受ける手の気配があった。しばらく動かなかった。
「……雨の夜の」
言葉が、途中で落ちた。
「冷えに合う配合でございます」
「覚えている」
低い声だった。
「この味を、——覚えている」
「お粗末さまでございます」
「……」
わたくしは、畳の目を見ていた。
茶を啜る音が、ひと息だけ、した。それから、もうひと息。
やがて、その人は茶を飲み干したようだった。
空の盆が、障子の下から押し戻されてきた。棗の実が、茶杯の底で、横に休んでいた。
* * *
「——蘭」
「はい」
「朕として参ったのではない」
障子の向こうで、その人は立ち上がった気配がした。
「景琰として、——詫びる以外にできぬものかと、思った」
わたくしの耳が、その名を、一度だけ、つかんだ。
景琰。
公式の詔勅にも、史書にも、記されている名だ。知らない者はない。ただ、それを、この人自身が、自分を指すために口にしたのを、わたくしは——これまで、一度も、聞いたことがなかった。
「許せとは、言えない」
雨が、瓦を打った。
「……ただ、お前が、冷えていなければよいと、それだけを」
「——」
「言っておきたかった」
障子の向こうの人は、一礼する気配をして、下がった。
縁側の板を踏む音が、父の取次ぎの声と合わさって、やがて雨の向こうに溶けていった。
* * *
わたくしは、しばらく動けなかった。
障子の紙を、雨風が、わずかに揺らしていた。
戻された盆を、両手で持ち上げた。
空の茶杯の底に、棗の実が、横になって残っていた。
指を、伸ばした。
茶杯の底に、指先を触れた。
——まだ、温かい。
飲み干されたばかりの温度が、陶の底に、残っていた。
雨の音のなかで、わたくしは、しばらくそのまま、底に指を置いたまま、動けなかった。




