第3話 もう結構です
勅使の蹄の音を、わたくしは縁側で聞いていた。
春のまだ遠い朝で、空気の端がひんやりと冷えていた。庭の梅は、このあいだに一輪だけ芽を綻ばせていた。その薄い紅を目で追いながら、蹄の音を聞いていた。
——来た。
驚きはなかった。二日前の昼、わたくしはようやく結び文を解いた。
『陛下、朝議で御気分を悪くなされ候。お茶をご所望にあらず、ご所望のもの見当たらず』
香月の字だった。筆の走りがいつもより急いていた。それだけで、後宮の様が知れた。
解いたあとも、答えはすぐには出なかった。父はあいだに茶事院の用で都へ一度だけ出て、日の落ちる前に戻ってきた。戻ってきたときの父の目は、何かを察していた。何も訊かなかった。
そうして二日が過ぎ、この朝、蹄の音が来た。
体が先に、答えを知っていた。
* * *
下人が走ってきた。
「お嬢様——朝廷より、勅使。お車ではなく、直にお越しでございます」
「わかりました」
立たなかった。立って出迎えるのは、もう、わたくしの仕事ではない。
袴の裾を整えて、縁側に膝を折ったまま背筋を伸ばした。裾の紅が、春の光でほんの少しだけ鮮やかに見えた気がした。入内の年に、母がわたくしの裾に縫いつけてくれた紅だった。
奥で父が、迎えの下女たちに声を落として指図していた。
しばらくして、勅使の二名が、座敷の向こうから庭へ案内されてきた。
先頭の一人は、髭を蓄えた中年の役人だった。朝廷の行事でときおり見かけた顔。後ろの一人は若く、朱の布で結んだ巻物を両手で捧げていた。若いほうの髪の毛先が、朝の風で一度だけ乱れた。
父が奥から出てきて、わたくしの隣に座した。無言だった。
勅使が、座敷の縁で膝を折った。
「——紅 蘭蘭 殿」
呼ばわれ方に、勅使の側が言葉を選んだ気配があった。すでに淑妃ではない。その事実を、勅使の声の端が先に承知していた。
「はい」
短く応じた。
勅使はひとつ息を吸って、若いほうから巻物を受け取った。朱の結びを解く指が、ほんのわずかに震えていた。広げ、読み上げる。
「陛下におかれては、紅 蘭蘭 殿が代々紅家に伝わる茶の術に通じておらるるを御存じにあり。よって、茶の師として朝廷への出仕を命じ賜う」
読み終えて、勅使は巻物を掲げたまま顔を上げた。
父は、何も言わなかった。
わたくしも、しばらく、何も答えなかった。
庭のほうを一度、見た。
梅のひと枝に日が差していた。
ひとつ、息を吐いた。
「師として、ですか」
「……は」
「では」
言葉を切った。
勅使の目が、こちらを見た。
「妃としては、もう結構です」
わたくしは、微笑んでいた。
勅使の口が、半分開いたまま止まった。若いほうの男が、広げた巻物を落としかけて、慌てて抱え直した。父は、相変わらず、何も言わなかった。
「……紅 蘭蘭 殿」
「はい」
「これは、陛下の命でございます」
「承知しております」
「承知しておきながら、——」
「茶の師として、とのお言葉でございました。師としてのお呼び出しに応じるか否かは、紅家の家としての判断でございます。——師ではなく妃として戻れとの仰せでしたら、話は別でございますが、いま頂戴したお言葉とは違うことになります」
勅使の額に、薄く汗が浮いた。
「……紅家に、応じぬと判じられる権威はございませんぞ」
「判じるのではなく、お断り申し上げるのでございます」
微笑みを崩さなかった。
勅使は何か言いかけて、飲み込んだ。もう一度言いかけて、また飲み込んだ。
それから、ふっと、声の調子がゆるんだ。
「……紅 蘭蘭 殿」
「はい」
「これは、勅使の口上にはない、一人の勤めの者としての申し上げでございますが」
「はい」
「陛下は、ここ数日、お茶をご所望にあらず。夜半、後宮の廊を歩まれる報もあり、ときに『どこだ』とだけ仰せでございます。何をお探しなのかは、女官にも、誰にも、——わかりかねるのだと」
わたくしの指が、袖の内でわずかに動いた。
見られていないと、思いたかった。
勅使の目は、畳を見ていた。
「……お言葉、ありがとうございます」
「いえ」
勅使は両手を畳について、深く頭を下げた。
「お断りの旨、陛下にはそのままお伝え申し上げます」
「お願いいたします」
父が、初めて口を開いた。
「——娘の言葉は、家の言葉にございます。どうぞ、ご斟酌ください」
勅使は、もう一度深く頭を下げた。
若い勅使が朱の布で巻物を結び直し、二人は庭を退いた。結び直す手はまだ少し震えていたが、もう誰も、それを指摘しなかった。
蹄の音が、やがて、朝の空気のどこかに溶けて聞こえなくなった。
* * *
縁側に、わたくしと父だけが残った。
父は立ち上がらなかった。わたくしも、立ち上がらなかった。
庭のどこかで、鶯がひと声、鳴いた。声にまだ張りがなかった。
「——蘭」
父が、久しぶりにわたくしを名で呼んだ。
「はい」
「お前は、冷えたか」
「……いえ」
「そうか」
父はそれだけ言った。わたくしも、それだけ応じた。
春の風が、梅のひと枝を軽く揺らした。
父が、袴の膝のあたりを掌でひと撫でした。年を取った掌だ、としみじみと気づいた。この掌が、たった今、わたくしの言葉を家の言葉だと言ってくれた。
「お父様」
「うん」
「お茶を、お淹れいたしましょうか」
「……ああ。頂こう」
父の声が、少しだけ、ゆるんだ。
* * *
日が傾いた頃、わたくしは裏の厨で、父のために選んだ茶葉を紙に分けていた。紅家の裏手には、使用人の出入りに使う小さな門がある。裏門と呼ばれていた。
紙の上で茶葉を寄せる指が、朝よりもなぜか重かった。つまむたびに、粉が少しだけ散る。いつもならきれいに揃えられる仕事だ。
手を止めたのは、下女の慌てた足音が聞こえたからだった。
「お嬢様、——あの、——」
「どうしました」
「……いえ、何でもございません」
下女の顔が、ほんのりと青い。わたくしは紙の端を折り目だけ整えて、立ち上がった。
裏の小窓から、裏門のほうへ目をやった。
日は、ほとんど暮れていた。赤に近い紫が、瓦の上に残っているだけだった。
裏門の外に、一人、立っていた。
黒い衣。被衣を目深に下ろして、顔は見えない。供の姿はない。馬も見えない。ただ、門の前に、人が立っていた。
門は閉まっている。内から開けようとする者もいない。下女が怯えているのは、その姿が町の商人でも物乞いでもないからだった。
立っていた。
わたくしも、小窓の内から、その立ち姿を見つめていた。
——誰、なのだろう。
心当たりは、あった。なかった。いくつかあった。どれも違う気がした。
しばらく、その人は立っていた。
やがて、ゆっくりと顔を少しだけ上げた。被衣の下で、屋敷のほうを見ているようだった。わたくしのいる小窓までは、見えていないはずだ。距離も、角度も、合わない。
それでも、見られた、と思った。
指先が、冷たかった。
男は、踵を返した。
被衣の裾が、夕風に一度だけ大きく流れた。
歩み去る背が、道の角で折れて、見えなくなった。
「——お嬢様」
下女が、後ろでかすかに声を出した。
「大丈夫。今のは、お父様にも言わないでおきなさい」
「……はい」
「下人にも、言わないで」
「……はい」
わたくしは、小窓から目を離した。
袖の内で、指が、まだ冷たかった。
紙の上に残った茶葉が、わたくしの動かした折り目から少しだけこぼれて、板敷の縁で止まっていた。




