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側妃位を返上した翌日から、陛下が私の茶を探して後宮を彷徨っています   作者: 九葉(くずは)


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第2話 正妃の茶

「今朝から、皇后様がお淹れになります」


その一言が寝所に届いたのは、淑妃が去って三日目の、夜明け前のことだった。


私はまだ夢の縁に指先を残していて、言葉を繰り返すのに少しかかった。


「……なぜ、そう急に」


「陛下が、側妃殿下の残された茶葉以外をここ二日お手になさらないのです。女官長が申しますに、このままでは御身に障ると」


ふ、と鼻が鳴った。


喉は乾く。そのとき、誰が淹れた茶なら飲んでやろうと陛下が決められるか。——あの娘の残した葉だけとでも? 冗談ではない。


「支度を。今朝は私が」


女官たちの顔に、ほんの短い戸惑いが走った。見えないふりをした。この国の皇后が、茶のひとつを淹れられぬわけがない。ずっとそう思ってきたし、今もそう思っている。ただ私は、これまで自分の手でそれをする必要がなかっただけだ。


厨房は思ったよりも暗く、思ったよりも狭かった。炭の匂いが衣に染みつく気がして、私は息を止めた。


棚に並ぶ茶葉の壺を見上げた。銘がよく似ている。どれが寝起きに合うのか、どれが冷えに合うのか——気にしたこともなかった。


一番上等そうな壺を指した。女官が蓋を開ける。黒く、細く撚れた葉。これでいい。上等なのだから、間違うはずがない。


湯を注ぐ。白磁の茶杯に、湯気が一気に立ちのぼった。


色が出た。あの娘が淹れていた薄い金色よりもずっと濃い。濃いほうが、寝起きの陛下を目覚めさせるには適しているに決まっている。薄い湯など、御身分にそぐわない。


「お持ちしなさい」


女官が盆を捧げて退出する。


私は自分の指先を見た。湯の熱で、わずかに赤くなっていた。


——これだけのことだ。


あの娘が朝ごとにこの手順を繰り返していたと聞いて、私は声に出さず笑った。


厨房を出るとき、物置の隅に白布で封じた木箱が目についた。封印の札に、女官長の筆で『淑妃殿下より押収の茶葉』と書かれている。告発の折に証拠として取り上げたままのものだ。処分の命を、私はまだ出していなかった。


「あれを、私の房へ」


女官が動かなかった。


「皇后様、処分の命を女官長が待っておられますが」


「必要なら私が出す。先に、私の房へ」


二人目の女官が、ちらと一人目を見た。一人目の女官は視線を伏せ、木箱を受け取った。


「もう一度、中を確かめるだけだ」


そう言って、厨房を出た。


朝の空が、格子戸の向こうで薄く白みかけていた。


  * * *


紅家に戻って、三日目の朝。


目覚めるのに、いつもより少しだけ時間がかかった。


今朝は何をすべきか、体が先に尋ねてくる。答えが出てこない。


十年、体が先に動いてきた。湯を沸かし、茶葉を量り、盆に載せ、廊下を渡る。そうしない日があってよいのだと、わたくしの手足はまだ信じていないらしい。


袖を探って、結び文を取り出した。離れた日の夕刻に届いたものだ。


『朝餉に、陛下お手をつけられず』


もう文字は覚えている。解く必要はない。


畳んだ紙をまた袖に戻した。


父はすでに朝餉を済ませ、茶事院の用で都へ出ていた。一日戻らないと聞いている。屋敷は、静かすぎた。


朝餉の膳には、塩漬けの梅がひと粒載っていた。下女が手で漬けたものだろう。後宮で出ていたものより少し塩が強く、奥歯の片方にしみた。残りの半分を匙の縁に置いて、結局食べなかった。


わたくしは袴の裾を払い、奥の書庫に下がった。


埃の匂いがする。木箱の蓋を開ければ、紅家の茶事記録が年ごとに束ねられて積まれていた。最も古いものは曾祖父の代のものだ。小ぶりの字で、どの年にどの茶葉がどの等級で収穫されたか、細かく書き残してある。


わたくしの名が入った束もあった。


紅 蘭蘭。十五の春に、初めて客人のためにひと盆をまとめた日の記録。


開いた。


『雨上がりの午、客人の冷え強し。雲南春茶、常より軽め。湯はぬるく。客、飲み終わりに肩を落とす』


筆の運びがまだ幼い。それでも当時のわたくしが何を見ていたかは、字の運びから伝わってきた。


(肩を落とす、か)


緊張が解けるとき、人の肩は一度落ちる。それが目に見えたことが嬉しくて、夜に筆を走らせた。


記録を閉じ、木箱に戻した。


書庫に、春のまだ遠い朝の光が斜めに入っていた。


(今朝、あの白磁の茶杯は誰が手に取ったのだろう)


考えないつもりだったのに、考えてしまった。


気がつけば、わたくしの指は、卓の隅の客用の茶杯を三つ、並べかけていた。盆を出そうとまで思った。


——ここは後宮ではない。


手を止めた。杯を戻した。戻す指が、茶杯の縁に軽く触れた。冷えた陶の感触が、いつもの朝よりも遠く感じた。


  * * *


昼前、訪いがあった。


客間に通すほどでもない、同業の若い茶師だった。父の遣いで、今年の茶葉の見本を届けに来たのだという。


「紅家のお嬢様に、ご挨拶だけでも」


若い茶師はわたくしが後宮におられたことを知っているはずだが、顔には出さなかった。そういう躾を受けて育った人間だ。わたくしは縁側で受け取り、見本の壺を膝の隣に置いた。


「都は、騒がしいですか」


何気ない挨拶のつもりだった。


若い茶師の目が、一瞬だけ揺れた。


「……ご存じ、ありませんでしたか」


「なにを」


「今朝、陛下が朝議で御気分を悪くされたと。都で噂が早く、お屋敷にもそろそろ届く頃かと思い」


わたくしの指は、見本の壺の紐を結び直しているところだった。結び目を二度、重ねた。


「御気分を悪く、とは」


「朝餉のあと、急にお顔の色が、と聞いております。侍医が参られたと。それ以上は、都の者にもわかりません」


「わかりました」


若い茶師は短く礼をして下がっていった。門のほうで下人と二言三言、何かを話す声が聞こえ、やがて静かになった。


縁側にわたくしだけが残った。


朝餉のあと。——朝餉の。


——冷える朝は、少しだけ重めに。


今朝の湯の熱は、どうだったろう。茶葉の量は、配合は。誰の手が淹れたのだろう。


両手を膝の上で揃えた。何かを握ろうとして、握るものがなかった。


庭のどこかで、鳥がひと声、鳴いた。いつもの声なのか、そうでないのか、わたくしにはもう判別がつかなくなっていた。


  * * *


日が傾いた頃、門に使いの者が立った。


下人が困った顔で、結び文を運んできた。


「……またも後宮の女官より、との口上でございます」


小さな結び文だった。外の紙の結び目が、独特の捻りで留められている。


——香月だ。


結び方で、ひと目でわかった。後宮で、わたくしの茶具の袋を結び続けた手の結びだ。


受け取って、膝の上に置いた。


解かなかった。


下人が何か言いたそうな顔をして、けれど言わずに下がっていった。


わたくしは縁側から立ち上がり、結び文を袖に入れて、奥の間に入った。暖炉に火が入っていた。父が夜まで戻らないと知っていて、下女が気を利かせたのだろう。


畳の上に膝を落とした。結び文を袖から出し、暖炉の光の届く畳の上に置いた。


解くことが、できなかった。


(もし陛下が、もう——)


考えが最後までいかない。


解けば、事実になる。解かなければ、まだ、何も始まっていない。


暖炉の火がぱちりと鳴った。


わたくしは結び文を見つめたまま、膝を崩さずに座っていた。


廊下で足音がして、下女が灯りを消しに来かけた。わたくしが起きているのに気づいて、灯りを足してから下がっていった。


結び文は、畳の同じ場所にあった。


  * * *


長く感じる夜というのは、辛さが自覚できているときに訪れる。辛いのが辛いと自覚できないときには、夜はただ通り過ぎてゆく。


東の障子が白み始めた頃、わたくしはまだ同じ場所にいた。


朝の光が障子越しに、畳を撫でるように差し込んできた。


暖炉の余熱が作る空気の流れに乗って、結び文の外紙の端がふるりと動いた。


わたくしの指は、まだ、その結び目に届かないままだった。

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