第1話 静かな離脱
鉄瓶の湯がひとつ大きく息をついた。
わたくしは雲南の春の茶葉を指先で量る。半匙、それに半匙の半分。白磁の茶杯に落とす。湯を細くひと筋ずつ茶葉の上に落としてゆく。立ちのぼる香りの重さで、今朝の外気が骨まで冷えていることがわかった。
——冷える朝は、少しだけ重めに。
湯の音で人の肩の重さを聞け、と幼いわたくしに教えたのは父だった。湯に耳を澄ませ、香りに鼻を澄ませ、飲む人の肩に手を置いたつもりで茶を選べ、と。いまでもそうしている。わたくしの指は告発を受けたあとも変わらず、十年続けてきた手順を守っていた。
後宮の厨房は朝の前の闇の中にあって、焚かれた炭だけが赤く脈を打っていた。
最後の一杯を、支度する。
茶杯の縁に触れた。肌を通して伝わる温度が、今朝はいつもより少し低い。陛下がお目覚めになるまで半刻はある。このくらいの熱なら、手に取られるころにちょうど飲み頃になる。
(……我ながら、よく作り込んだ手順)
湯気の向こうで、香月がこちらを見ているのに気がついた。
元付きの女官だ。もう何も言うべきではないと知っている顔で、ただ見ている。
「後宮を出たあと、どうか無理をなさらず」
「ええ」
それ以上、香月は何も言わなかった。わたくしも問わなかった。
茶杯を盆に載せた。いつものとおりに白布を添えて。
* * *
未明の執務室は、墨のにおいがした。
侍従が燭台の明かりを手に出迎える。驚いた顔だった。
「……淑妃殿下」
呼ばれた名で頷く。今日、最後にその名で呼ばれる。
「いつも通りに」
「ですが、陛下はまだお休みで」
「直接差し上げる必要はありません」
侍従はしばらく動けないで、それから黙って下がった。
執務机の右端、筆立ての少し手前。十年、陛下はここに手を伸ばして、冷める前に一口だけ飲まれる。そのいつもの場所に白磁の茶杯を置いた。
机の上に昨夜の書類が残っていた。読みかけのまま紐を掛けるのを忘れた巻物が一本。字の走りが疲れて見える。下の隅で筆が一度、強く止まっていた。お疲れなのだ。
——冷える朝は、少しだけ重めに。
選んだ配合に、間違いはなかった。
執務室の奥、薄絹の帳の向こうで、ゆっくりとした呼吸の気配がある。
半分開かれた帳の隙間から、枕の上の黒髪が見えた。
起きていらしたら、淹れる茶は違う配合になる。
一歩、帳のほうに近づいた。
——もう、これで終わりなのだから。
一度だけ、と思って覗いた。
眠る陛下の横顔は、十年見たことのない角度をしていた。眉間の皺がほどけていた。
なにか、言いそうになった。
……言わなかった。
執務机に戻った。筆立ての隣に、紫紺の絹で結んだ小さな包みを置く。中には茶葉と、一筆。
『十年分の感謝に代えまして』
お慕いしておりました、と書きかけて消した。十年お仕えできて、と書きかけて消した。言葉を削るたびに、嘘ではなくなっていった。最後に残ったのが、この一文だった。
(おやすみなさいませ)
声には出さなかった。
帳のほうを、もう一度だけ振り向いた。
それから背を向けた。
* * *
朝の光が大門の瓦を白く照らしていた。
書記官が両手で巻物を受け取る。
「側妃位返上の書、確かに。……本当に、よろしいのですか」
「はい」
それだけ。
退出の列に見送りの女官が数名いて、香月はいちばん後ろに立っていた。両手を袖の内に隠して、顔を上げない。上げないことで、こちらに何かを伝えようとしている。
すれ違う間際、香月の袖の内で、何かが小さく鳴った。布の端が覗いた。何を隠しているのかは見えなかった。ただ、香月が両の手を袖に収めて顔を伏せていること、その肘の力の入り方で、後宮に残って何かを続けるつもりなのだと察した。
目を合わせずに通り過ぎた。
香月は後宮に残るつもりなのだ。残って、見続けるつもりなのだ。
反対側に正妃付きの若い女官が立っていた。軽く頤を上げて、通り過ぎるわたくしをじっと見ている。
正妃様ご自身はお出ましにならない。来ないことで勝っていると思わせたいのだろう。
微笑んで、軽く頭を下げた。
女官は不意を突かれたように目を瞬いた。
後宮の門は、音もなく閉まった。
* * *
紅家の門前で、下人が深く頭を下げた。
自分の家に入る。
——いや、違う。年に一度の里帰りの折にわたくしはこの家の空気を吸ってきた。帰ってくるのと戻ってくるのは、別のことだった。
屋敷は、わたくしが出る前と同じ匂いがした。古い木と、乾いた茶葉の匂い。廊下の板は相変わらずよく磨かれていて、父がこの家をひとりで守ってきたのだと、それだけで足の裏から伝わってきた。
縁側に父が出ていた。白髪が増えている。それを見てようやく、わたくしが留守にしていた時間の長さを、自分の目で確かめた気がした。
「父様」
「……お帰り」
父はこちらに顔を向けないで、縁側の板敷にそのまま腰を下ろす。わたくしも隣に座った。
庭の梅はまだ芽だった。風が一度、強く吹いた。
父は何も訊かなかった。
訊かないのは、訊かなくてもわかっているからなのか、いまは訊けないからなのか。わたくしにはわからなかった。
——どちらでもよかった。
父の手が膝の上でかすかに震えていた。わたくしは、見なかったことにした。
ただ、隣に父が座っている。それで今朝の重みが少しだけ軽くなった気がした。
十年ぶりに肩の力が抜けた。自分が息を詰めていたことに、息を吐いた瞬間に初めて気づいた。
* * *
日が傾いた頃、門に使いの者が立った。
下人が困った顔で取り次ぐ。
「……後宮の女官より、との口上でございます」
受け取った結び文を縁側で解いた。
書かれていたのは、ひと言だった。
『朝餉に、陛下お手をつけられず』
結び文の紙を、そのまま膝の上に置いた。
朝、わたくしが置いてきた白磁の茶杯を、陛下はまだ飲んでおられないのだろう。
机の右端、筆立ての少し手前。起き抜けに手を伸ばして、そこで止まっていらっしゃるのかもしれない。
そういう背中を、わたくしは知っている。
政務が立て込んだ夜の次の朝、陛下は机の前で同じように止まられた。そういうときは少し甘みのある茶を選ぶ。いつもよりゆっくりと湯を注ぐ。
でも今朝は、もう、わたくしはそこにいない。
夕風が庭を渡った。
紙を小さくたたみ、袖に入れた。
「父様」
「……ん」
「お茶を、お淹れしますわ」
父がようやく、こちらを見た。
「自分のために、ですわ」
そう言って、立ち上がった。
十年ぶりに淹れる、わたくしのための一杯。
湯の音は、自分の肩の重さを聞くためにあった。




