8話
「準備は大丈夫?」
「うん!」
「じゃあせーので広げるよ! 行くよ?」
「「 せーの!! 」」
ブワッと音を立てて広げた色の褪せた黄色のテーブルクロス。 そよ風が入り込み、布が膨れ上がると体重が少しだけ軽くなる。
翼のいらない浮遊感。それは弟と対等に心通わせられる数少ない喜びの共有。 あり得ない体感に顔を見合わせて二人で笑い合う。
それだけでこの息苦しい胸のつっかえを忘れられる。
いつものように外にある木彫りの机にクロスをかぶせて、カナリアとインバードは裏表のない笑顔で今日も朝食の準備を進める。
姉弟の幸せが満ちた食卓。
「そういえばインバード、この前家の近くに作った畑ってどうしてたっけ?」
「畑? あー、あ!」
「ふふ。 その反応からして私と一緒で忘れてたな?」
「いや! 忘れてたわけじゃないんだよ? ただ――その。 ごめんなさい、あの畑、間違えて踏んじゃって――多分ぐちゃぐちゃになってるかも」
気まずそう目を逸らすインバード。 そもそも目の見えない弟と少しでも共通の趣味をと思って始めた家庭菜園。
以前から料理や掃除、いろいろと一緒にチャレンジはしてはいるが今回もダメだったようだ。
「あらら、でも植物ってとっても強いからもしかしたら――」
「ないよ」
「――え?」
「それはないよ――だってぐちゃぐちゃになっちゃんたんだから」
落ち込んだ様子のインバードが肩を落として震える指でそっと食器をテーブルに置く。
「だからごめんなさい。 お姉ちゃん」
「そんなに気にしなくっていいよ。 私はインバードが楽しいって思えたならそれだけで十分だから。っさ! ご飯食べよ!」
「うん!」
カナリアはインバードの頭をそっと撫でてから、杖を使う弟をゆっくりと席に誘導して自分も席に着く。
「「いただきます」」
これは食事を取る前に行う私たち家族の決め事。
――そういえば、お母さんと過ごしていた時は手を合わせない事をよく注意されていた。
この場に並べられたサラダや一人一切れのパンに卵、ベーコン、食器すらもそうだ。
『今この卓上にある全ての物は地上を生きる者たちが神へと捧げた供物であり、本来は神でもない天使が手にして良い代物では決してないの。 だからカナリア、私たちは頂いてるのよ?』
母の言葉を思い返すカナリアは、弟が気を使わないように小さな器に注いだ一杯のスープをゆっくりと口に運ぶ。
「お姉ちゃん、お腹すかないの?」
目の見えないはずの弟の発言にカナリアは少し驚いてから、気丈に振る舞う。
「うん。 お姉ちゃんはお腹ずっと減らないから、インバードはいっぱい食べてね。 私のパンも上げるから」
「え? あ、ありがとう」
インバードは私よりもずっと耳がいい。 だから私が普段から食器の音を立てないのが不思議だったのかもしれない。
たしかに、私は基本的に食事をしない。
でもそれをわざわざ弟に伝える必要もないから、何かを言おうとした弟の言葉を遮ってカナリアはパンを渡した。
「いいのよ。インバードが笑ってくれることだけが私、嬉しいの」
何を言っているのか分からない様子のインバードが首を傾げている。
「だからいっぱい食べて、元気に大きくなってね」
憂いた目で見つめるカナリアは弟の口元にハンカチを添えて、食べかすを綺麗に落とす。
母の言葉通り、食材は全て頂き物だ。
私たちが生きられるのは地表の民から捧げられる供物が、偶然神様には要らないものだっただけの話。
だから怖い。
いつか、こんな当たり前が壊れるんじゃないかと不安でならない。
思うのだ。私たちは目に見えない偶然という名の奇跡の上で生きていて、奇跡が続いたから当たり前と思い込んでしまっているのではないかと。
また物乞いをする生活に転落するかもしれない。
慢心が明日を殺すことだってある。 頼ることでしか生きられないの無償の施しが怖いのだ。
「もう――スープが無くなってる」
覗き込んだ器の底が少しふやけて見えて、木材の皺が気持ち悪いと思った。
「? お姉ちゃんどうかした?」
「うんん、なんでも! ごちそうさま! さてと! サムクル、申し訳ないんだけど今日も水汲みお願いできるかな?」
まだ食事中のインバードを横に、餌をひと口で飲み込んだサムクルが撫でてと言わんばかりに頭を近づける。
「クァ!!」
「よしよし、無理はしないでね」
サムクルの喉元を撫でてから大きなバケツを咥えさせると、インバードが不服そうに口を膨らませる。
「僕も行く!」
「ご飯食べ終わってないからダメだよ?」
「ん〜! サムクル早く帰ってきて一緒に遊ぼうね!」
インバードの言葉を理解しているのかは分からない。
ただサムクルはそれは嬉しそうに口を閉じたまま喉を鳴らし、大きな翼を羽ばたかせてあっという間に遠く空の彼方へと飛び立った。
「本当――成長ってあっという間よね」
サムクルを保護して三年。
怪我をしていた鳥の雛をインバードが雨の中拾ってきた時はどうしたものかと本当に頭を抱えたのが懐かしい。
今では手間もかからないし、何よりインバードの良い遊び相手になってくれているのだから逆に助けられてばかりだ。
「僕も大きくなったよ!」
「えぇ、もちろんわかってるよ」
案外なるようになるんだなと思いながらサムクルを見送ってから、食器を下げた後にカナリアは朝食前にインバードが話したそうにしていた事を聞いてみる。
「よっし! 遅くなっちゃったけど今日何かあったの?」
「あ、えっと……そのね……うん、それはね! もう気づいてると思うんだけど……ジャジャーン! 見てみて!」
忘れていたのか、それとも伝えることを躊躇っているのか。
カナリアが覚えていた事に少しだけ言葉を詰まらせた盲目のインバードは諦めた様子でゆっくりと立ち上がり、歩行の際に使用していた木の杖から手を放すと突然家の周りにある木々を縫うように軽々と走って見せた。
「すごいでしょ!? 僕もう杖がなくても大丈夫になったんだ!」
「目が――見えるようになったの?」
今まで杖で足元を確認しながらゆっくりとしか歩けなかった弟がさも当たり前のように駆け回る姿はまさに青天の霹靂。
ただ驚きを隠すことが出来ずカナリアは腰を抜かして唖然とした。
「ど、どうしたのおねーちゃん?」
立ち止まるインバードを急ぎ真正面から覗き込むカナリア。
弟の身に起きた″何か″を血眼で探すが、見る限り瞼が開いている様にも見えないし顔にも特に異常は見当たらない。
「えっちょっと! ちょっと待って! わぁああ!!」
天使の輪も翼もない。 周りの天使達とは生まれた時から違っていたインバード。
もしかしたら見落としてはいけない病に蝕まれている?
カナリアは弟の反応などお構いなしに服を脱がせて、全身をぺたぺたと触診するが、やはり特にこれと言って肉体的な変化は見当たらない。
杞憂か? そう思っているとインバードの左手の甲に見たことのない紋様が刻まれていることに気がつく。




