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9話


「インバード、これって?」


 天使がここまで? いや、それは有り得ないはず。 だってここは天使に一度もバレていない、イデルバが私達のためにくれた隠れ家だ。


 イデルバが天使の目が付かないこの家を――


 私とお母さんが過ごした家を――あれ?


「――もしかして、スラムの奴らがここに来て、何か、された?」


 インバードの肩を強く掴んで、カナリアは目を見開いて俯く。 瞳孔が揺れる。 視線が定まらない、私は今、何かを思い出そうと揺れている。


 別にマリアやイデルバを疑っているわけではない。 むしろ疑っているのは自分の記憶。


 私はここでお母さんと過ごした記憶がある。


 そしてお母さんはあの日確かに天使に連れていかれた。 ずっと白昼夢のようなものだと思っていた今朝の夢が、ただの夢じゃない確かにあった過去なら。


 前提条件が揺らぐ。


 ここは絶対の安全地帯では――ない? 


「ねぇ、インバード。 なんでもいいからお姉ちゃんに話して」


 責めるつもりはなかったが、カナリアは不安から捲し立てるようにインバードの肩を掴んでいた。


「おねーちゃん、ごめんなさい。 ただ周りを感じられるようになって……それで……あのね……喜んで欲しくって……」


 今にも泣きそうなインバードをみてふと我に返る。


 そうだ。 今心配するべきは弟の異常であって記憶の齟齬ではない。


 仮に天使がここを知っていたとしてもスラム街の様子からして堕とされた神の妃の事で頭がいっぱいだろうし、今はまだ大丈夫。


 カナリアは弟を優しく抱きしめながら呼吸を整え、改めて何があったのか耳を傾ける。


「ごめんね。 そんなつもりじゃなかったの、ただインバードに何かあったのかと思って……お姉ちゃん怖くなっちゃって……インバードが大丈夫ならいいのよ、それが一番だから……」


「……うん。 ごめんなさい」


「謝らなくってもいいの。 ね、それよりもインバードのお話もっと聞かせて! 周りを感じ取れるってどんな感じなのかな? お姉ちゃん昨日何があって、何を感じられるようになったのか凄く気になっちゃった!」


 優しい声音、いつもの姉に戻ったことを何となく感じ取ったインバードは安堵した様子でカナリアの後ろにある物を指差して少しずつ言葉を選ぶように伝え始めた。


「えっと……あ!おねーちゃんの後ろの木から葉っぱが落ちた!」


 インバードが指を差す方向に即座に振り返ると、確かに一枚、たった一枚の木の葉がひらりと落ちていた。


 まさか本当は見えている?


 顎に手を当てて落ちる木の葉を睨みつける。


 インバードは目を開けてはいなかった。


 それに仮に見えてるなら周りを感じ取れるなんて言葉の選び方はしないだろう。 


「確かに落ちてる……ね? 凄い! 何でわかるの?」


「だってゆらゆら揺れてるでしょ?」


 蒼蒼と茂った芝生の上に落ちた青葉に近寄り、葉柄(ようへい)を掴んで空に翳す。


 確かに落ちている以上風に煽られて揺れてはいるし、インバードは間違ったことを言ってはいない。


 でもやっぱり何を感じているのかいまいち掴めない。


「うん、揺れてた……ね」


「それを感じるの! 感覚なんだけど……こう……世界がカサカサーって小さく動いてて、それが形になって見えるんだ!!」


「なる、ほど……」


 難しいが言わんとしている事は何となく理解はできる。


 伝えられた事が嬉しそうなインバードを見つめ、カナリアは少しだけ考える。


 今のところ体調が悪そうな素振りも見て取れないが、何かしら身体に異変が起きているのは間違いないだろう。


 インバードは周りの天使達と容姿が大きく異なるから安易に問題ないと決めつけるのは危険。


 手の甲に突如として現れた紋様、周囲を揺れによって世界を認知できる感覚の変化。


 双方ともインバードの成長によって何かが覚醒した結果なのは事実だろう。


 「今日は出ない方がいいってイデルバに釘を刺されたけど……うーん。 万が一があるし放置はできないなぁ」


「僕、大丈夫だよ?」 


「インバードに何かあったらお姉ちゃんが大丈夫じゃないの」


 近寄ってきたインバードの頭を撫でて髪を指でとかす。


 眩しい弟の笑顔を見ると分かる。 きっと次また家族を失うようなことがあれば私は、本当に壊れてしまう。


 それに、記憶の齟齬も気がかりだ。


 天使達が天洞に気を取られてる分にはいいが、問題はその後。 彼らは常に好奇心の矛先を探している。 もし、このケレナ大森林にあるこの家を認知しているなら長居は危ない。


 弟の事を診てもらえる場所。


 母が何かあれば頼るようにと言っていた西にそびえ立つ鉄の塔、神すら嫌う大地、廃楽園。


 マリアが天洞に行くことを引き留めるなら、イデルバは私に廃楽園へは決して行ってはならない諫めた。 しかし母の言葉も気になる。


「でも、行くならスラム街を通らなければならないとだし」


 行くか行かないか……どうすれば良いのかと苦悶をしている時。


 頭上が陰り、丁度いいタイミングでサムクルが水汲みから戻ってきて、近くに着陸した。


「クェ?」 


 カナリアの視線がサムクルと重なる。 何かを察して後ずさりするサムクル。


「ねぇインバード、今日はサムクルにお願いしてメルフィさんのところに行こっか?」


「えぇ……あの人苦手……」


「もう、会ったこともないのにそんな事言わないの」


 カナリアですらメルフィに会ったことがないのになんでインバードが知り合いみたいな反応をするのか。


 その場の雰囲気で何となく嫌がるあたり、どこまでいっても子供だなぁと可笑しくて微笑んでいるとインバードは不思議そうに首を傾げた。


「え?お姉ちゃん――覚えてないの?」


 カナリアもインバード同様に首を傾げる。 インバードの質問の意図が分からない。  


「覚えてるも何も、私達、廃楽園にすら行ったことないじゃない?」


「じゃあ、なんでメルフィの名前知ってるの?」


「なんでって――そりゃお母さんの手紙に――」


 あれ? そういえばお母さんの置き手紙には廃楽園を頼るようにしか書いてなかったような? そもそもイデルバにこの家を紹介されてから手紙を見てない気がする。


――もしかしてイデルバにとって廃楽園に私たち姉弟が向かう事に何か不都合がある?


「お姉ちゃん、本当にどうしたの?」


「――心配しないでいいよ」


 メルフィ。 その名前を私は知っている。


 彼女はスラム街の西にある神すらも近寄る事を拒絶した廃楽園、唯一の住人。 お母さんの置き手紙に何かあったら廃楽園へ行くよう書いてあったから、私は頼った。


 だからメルフィの名前は知ってる。


「――私は ”メルフィを頼ったの?” 」


 顔から血の気が一気に引く。 五感が鈍くなる。 口内に残っていたスープの余韻が思い出せなくなって体が胃の中身を逆流させようと小さくなる。


 気持ち悪い。 何故か分からないが私は私がとても気持ち悪い。


 正解が分からない。 だが、それでもインバードの手の甲に浮かんだ紋様を見た瞬間、私はメルフィに会いに行かないといけないと直感した。


『なんで、、この子達の記憶を、、』


『その方が都合がいい、ずっと私たちに育てられた。そう改ざんするだけの話だ』


 記憶にないマリアとイデルバの会話が頭に響く。


 まるで頭の中に施錠されていた思い出の箱から少しずつ、かけがえのない忘れていた記憶が断片的に蘇るように。


『カナちゃん。 何かあったら必ず頼っておいで、』


 顔も思い出せない黒髪で身長の低い姿の少女と優しい声。


「やっぱりやめとこうよ! お姉ちゃん!!」


「――だめだよ」


「なんで!? お姉ちゃん、今日こわいよ!!」


「私はお姉ちゃんだから。 インバードの為を思うなら姉として連れて行かなければいけないの――だって――」


 強い使命感に掻き立てられたカナリアは目を見開いて、西にそびえる鉄の塔を勘定のない目で見つめる。


「この天界で頼れるのは、”メルフィだけだもの”」


 追放された堕天者、インバードの覚醒、カナリアの中に溢れ出す知らない記憶。


 何かが変わり始めていると感じたカナリアは自分の直感を信じて廃楽園に行くことを決意する。


 不確かだが、それが母が残した最後の道だと思えたから。




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