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7話


 インバードが眠る横。 カナリアは弟の寝顔を見つめながら部屋の壁に体をこすりつけ、ゆっくりと姿勢を落として両膝を抱えて座り込む。


 ため息をつく部屋の隅。 ふと小窓から差し込む光にキラキラと舞っている埃が照らされる。


 いつもなら掃いて捨てる塵が今日はやけに綺麗に見えた。


「なんで、今更思い出しちゃったんだろう」


 自己嫌悪からもう一度ため息を吐いて顔を膝に埋めてみる。


 するとふと、自分の首元に掛かっているペンダントが揺れている事に気が付いた。


 首を傾げながら、やたらと皺だらけで固い手の上でペンダントを遊ばせてみる。


「導く――ね」


 母がくれた青、世界に二つしかない青。


 あの日のことは――あまり覚えていない。 ただ一番印象的だったのは、母が初めて見せた涙だった。


『ごめん……ごめんねカナリア……幼い貴方に全てを背負わせないといけないなんて……必ず帰ってくるから……生きて! 生きて生きて生きて! そしてこの場所から逃げて』


『うん! 私お姉ちゃんだから大丈夫!』


 無邪気に笑うカナリアを抱きしめたアンリユの声は、普段よりずっと震えていた。


 私には母のそれが怒りなのか、悲しみなのか、はたまた喜びなのか。


 そんなこと気にも止めなかった。 今日は明日も続いて、喧嘩をしたって明日には仲直りできる。


 私はあの日までそうやって生きてきた。


 だから母にはいつものように笑っていてほしかった。 背伸びをして、母の言葉にわかったフリをした。


『お母さん泣かないで』


 アンリユの頭を撫でるカナリア。


 そんな娘からの気遣いに、アンリユは堪えていた涙を静かに流して、強く、壊れそうなほどに強く娘を抱きしめて声を上げずに鼻をすすった。


『もっと、もっと抱きしめていたかった、もっと……あなたに愛を伝えておけば――』


『お母さん大好き!』


『うん、私も大好きだよ。 カナリア』


 優しく微笑むとアンリユの手が頬にカナリアの頬にそっと触れる。 カナリアもその手の温もりに縋るように頬擦りをして目を瞑る。


『早く帰ってきてね』

 

『きっと、きっと必ず』


 お互いに頬を擦り合わせて幸せに浸っていると、後ろから知らない男が苛立った口調で母を急かす。


『おい行くぞ』


『はい。 もう少しだけ待ってください』


 男を一瞥することなく、アンリユは冷めた態度で男の声に答えると、ただただ名残惜しそうにそっとカナリアから離れて目を細める。


『これはね、お母さんがお父さんから貰った世界に二つだけの宝物よ。きっとあなた達を導いてくれる』


『ありがとう! おかあさん大好き!!』


『――ごめんね……インバードを、お願いね』


 あの日の母の顔は思い出せない。 ただ母と交わした最後の約束だけが今の私を生かしている。


「インバードを守る――ね」


 殆どが思い出せない過去であったとしても、今のカナリアと過去のカナリアに共通する変わることのない唯一残された目的。


 閉ざされる扉の隙間から顔を覗かせる青。ずっと透き通った晴天の美しさ。


 起きてる今ですら思い出せる。 眠れば決まって思い出す母の背中に手を振った記憶。


 幼い私が見ていたのは母の背中ではなかったのかもしれない。 大切な母の背中姿すらぼやけてしまうほどに、私はずっと扉の先に広がる綺麗な空の青を見ていた。


 そして決まって夢は終わる。たった一枚の扉に青が塞がれて。


 お腹がぐぅと音を立てて。


 私の幸せな夢が終わるのだ。


「あぁ。そっか。だから私は……睡眠を嫌っていたんだ」


 首にかけている青い宝石が飾られたネックレスに陽の光を透かして、過去を思い出す。 何故母は今まで肌身離さず身につけていたペンダントを自分の首に掛けたのだろうか?


「私たちを、導いてくれてるん――だよね?」


 あの日。 ずっと欲しがっていた母親の宝物を貰えたことがただすごく嬉しくって、状況が分からずに喜んだのを今でも覚えている。


『お母さんありがとう!』


 あの時、何故胸が張り裂けそうな顔で涙を流す母アンリユに一抹の疑問を感じなかったのだろう。


 少し手を差し伸べれば届いていたのかもしれない。 たった数センチ、その裾を引っ張っておけば。


 そんな事を今更考えても、何もかも既に手遅れなのに。


 青い宝石のペンダントを渡したお母さんが連れていかれたあの日。


 期待、喜び、幸せ、その全てが扉の音と一緒に閉じたのだから。


 扉の向こうで聞こえた地面を擦る靴音と、必死に抵抗する衣擦れの音。


 閉じられた部屋の中、カナリアは泣いてる弟の声でステップを踏んで声を上げて無邪気に踊った。


 ただ与えられたひと時の幸せ。母と過ごした日々の幸せよりもずっと印象的な――忘れていた過去。


 最初は――ずっと母の帰りを待ち続けていた。


 しかし外から扉を開ける者は以降、誰一人として現れることはなかった。


 次第に空腹は限界を迎え、弟の元気もなくなるばかり。


 生後間もない弟が声を上げなくなった。


 お腹が鳴った。


 だから私は弟を助ける為に母の約束を破り急いでスラム街に出て必死に道ゆく人に物乞いをした。


『お願いします、助けてくだしゃい! 弟のご飯だけ、それだけ、、弟を助けてくだしゃい』


 哀れみに似た目。 どれだけ必死に縋っても、天使は手を差し伸べることはなかった。


『責任も取れないのに子供なんて作るバカがいるなんてな』


――お願い、ご飯を


『おいアルザ! お姉ちゃんが、大切なんだろ? だったらやることはわかってるよな?』


『でも――』


『やれ』


 大人に唆された青年の天使が綺麗な目で、制御の効かない力で拳を振り上げる。


――殴らないで


『そのネックレスと交換ならいいぜ?』


――やっと


『って嘘だけどな! ははは!!』


 同情と蔑む視線。浴びせられる罵倒の中には母を貶し、カナリア達姉弟が生きることすら否定する意見もあった。


 泣きながら母の帰らない部屋を漁り慰留品を差し出し、なんとか命を繋げる地獄のような日々。


 幼い弟と共に命を絶つ選択を何度も迫られた。


 それでも涙を飲んで母の最後の言葉を思い出し、足掻いて捥がいて今まで生きてきた。


 大切だったのに。


 どうして、忘れていられたんだろう。


「頭、おかしくなりそう」


 鬱屈になりながら、このまま消えてなくなりたいと部屋の影に溶け込みかけた時、ふと弟が目に入る。


「ダメよ、インバードがいる。 カナリア、頑張れ」


 自分を鼓舞して頬を叩き、立ち上がる。


 自分が弱音を吐いてどうする。 この子が成人するまで、あと一年は頑張らないと。


 今年でインバードは十二歳。 十三歳でイデルバから不老の服が支給される。そうなれば欲求で死ぬことはなくなる。


 気を取り直して、カナリアは母譲りの鼻歌をうろ覚えで歌いながら台所へ向かう。



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