地表編 21話
「なんで俺が、空気みたいに扱われなきゃならない? 気分が悪い! 駄目だ、やっぱり地表にいると頭が腐ってくる! はは、もういい! お前もカナリアと一緒だ!! 壊れちゃえよ!!」
アルザは左手を顔へべったりと貼り付け、槍を無作法に握って襲いかかる。
「……気安く、我が娘の名を口にするな」
そう呟くと、カウルは再びゆっくりと歩き始めた。
風のように天使の横をすり抜け、いつの間にか腰に現れていた鞘から、長大で黒光りする刀身を抜き放つ。
刃先に付着した血液が、地面へ飛び散った。
「あぁああああああ!! 腕が!! 腕が、腕が腕が!! 痛い……痛い、痛い痛い!!」
数秒遅れて、アルザの両腕がずるりと音を立てて地面へ落ちる。
「俺はまだ、カナリアで遊び足りて――」
抜けるように素早い足運びと、音一つ立てない洗練されたカウルの斬撃。
それは絶望の淵にいたカナリアさえ、嘆くことを忘れて見惚れてしまうほど美しかった。
「いつまで口を動かしている?」
カウルが言葉を吐き捨てて刀を鞘へ収めると、先程まで喚いていたアルザがぴたりと静まり、その首を地面に落とした。
「まさか、自分が死んだことにすら気づいていなかったのか? 醜いな」
全ての事象を後回しにする程の存在。 自覚すらさせない死。 世界の認知すら置き去りにさせる力。
カナリアは、この男が本物のカウルなのだと本能で理解した。
「大丈夫か?」
今にも泣きそうな顔をした見ず知らずの男を前に、カナリアは壊れそうな情緒をはぐらかして正常を装う。
「え? あ……ありがとうございます」
「困惑するのも分かる。だが安心しろ。お前の腕にあるそのブレスレットは、間違いなくメルフィのものだ。つまり、実質お前は俺とメルフィの娘ということになる」
「……は?」
何を言っているの、この人?
助けてもらえたことについては、心の底から感謝している。
しかし、目の前で頬を赤らめ、感無量といった表情を浮かべる神の言葉があまりにも意味不明で、カナリアの中では感謝よりも先に、気持ちの悪い存在だという最悪の印象が刻まれてしまった。
当然のようにカナリアの頬へ手を添えるカウルの行動に、別の意味で寒気を覚える。
「それよりも……キルケの……どこ?」
カナリアはカウルから距離を取るように、アルザの死によって自由になった身体を引きずり、キルケの遺書と木箱を拾い上げる。
「よかった……本当によかった」
もう二度と離さないように、強く、強く抱き締める。
カナリアの涙が木箱を濡らした時、箱の隙間から青白い光が溢れ出す。
「これは……?」
天使の血に濡れた手で、カナリアは恐る恐る木箱の蓋を開け、中身を確かめる。
「――ストレージ……ナイフ」
机の上に遺書と共に置いていた、歪なナイフ。
なぜ自分がその名称を知っているのか、何故今になってナイフの名前を思い出したのかは分からない。
ただ不思議とナイフの存在がカナリアには異様なほど懐かしく感じた。
「カナリア、そのナイフから離れろ!!」
カウルが光る木箱を開け、ナイフを手に取ろうとしたカナリアを制止しようとするが、間に合わない。
本能の赴くままに。
確かに存在する過去の自分から、背中を押されるように。
カナリアは無意識のうちに、ナイフを握っていた。
途端に、青白く溢れていた光が美しい繭となり、カナリアを包み込む。
『起きてください』
『起きて……起きなさい』
聞き覚えのある声が、沈みゆくカナリアの意識へ呼びかける。
「あなたたちは……私?」
雲に包まれたような記憶の中。
今のカナリアの前へ現れたのは、まだ髪が伸びておらず、セミショートだった頃の自分にそっくりな少女と、それよりも二回りほど幼い女の子だった。
『ええ。私たちは、ナイフによって奪われた前人格。もう戻ることのない、カナリアという肉体を共有していた精神の断片よ』
『だんぺんだよ!』
腰へ手を当て、呆れたような表情を浮かべる姉気質なカナリアが、隣で誇らしそうに胸を張る幼い少女の頭を撫でながら、哀愁を漂わせていた。
「前人格……? じゃあ今の私は、あなたたちと混ざって、いなくなっちゃうんだ……そっか」
『人格は混ざらないよ?』
「え? そうなんですか?」
勝手な結論を出して肩を落とす今のカナリアに、姉気質なカナリアが小さく微笑む。
そして切なげな表情を浮かべながら、今のカナリアの手を握りながら自らの額をそっと今のカナリアの額に重ねた。
『だって私たちは、既にいなくなった存在。言うなれば、あなたに記憶を移すための幻影のようなものだから。私たちの記憶を受け取って、あなたがどう変わるかは、あなた次第よ』
姉気質なカナリアは、少しだけ表情を曇らせた。
『ただ、一度に全てを受け取れば、人格が崩壊してしまう。だから最初は、私があなたへ吸収されるわ』
「あの……それって、本当に大丈夫なんですか? 私、過去のことは何も知りません。でも、あなたにも大切な人や、叶えたい思いがあると思うんです」
今のカナリアは姉気質のカナリアに対して声を張り上げた。
瞳に涙を滲ませて、今まで個として生きることを怖がっていた今のカナリアはグッと姉気質のカナリアを睨みつける。
「だから、後悔だけはしちゃ駄目!! もう会えない悲しみは、あなただけのものじゃない……!」
大切な人の死を経験したことで生まれた後悔を、過去の自分へ精一杯、心の奥底から訴えかける。
『そうね。ありがとう、今の私。だったら一つだけ……お願いしてもいいかしら?』
姉気質なカナリアは、瞳に深い憂いを滲ませた。
『弟のインバードに、ずっと愛していると伝えてほしいの』
もっと生きたかった。
そう口惜しむように涙を流し、今のカナリアへ思いを託そうとする。
――そんなの、そんなのってないよ。
一つの人格が最期を迎えようと、その姿を消しかけた時。
今のカナリアは姉気質なカナリアの肩を強く掴み、突き放した。
「……駄目! 駄目だよ!! 私の言葉じゃ、きっと響かない!!」
今のカナリアは必死に首を横へ振る。
「だから私は、あなたの思いを引き継がない。あなたはあなたのまま、私の中に居続ければいい! 本当に、本当に伝えたい思いがあるなら、あなたがあなた自身の言葉で伝えなきゃ意味がないんだよ!!」
その言葉を聞いた姉気質なカナリアは、何かを言いかけてから、どこか嬉しそうに微笑む。
『ありがとう』
そう言い残し、泡沫のように姿を消す姉気質のカナリア。
けれど、不思議と失われた感覚はなかった。
光の砂となって消えた彼女は確かに、心の奥にいるような気がしたから。
残されたもう一人の幼い少女が、笑顔で今のカナリアへ駆け寄り、その手を握る。
『わたしは、もういいから。わたしのキオクをひきついで! インバードをよろしくね!』
「――え?」
少女へ手を伸ばそうとした瞬間、足元が抜け落ちた。
とろけるような意識が、過去の記憶という海原へ飲み込まれていく。
瞼を閉じて思い出すのは、人の手が届かぬ天上の彼方。
地平線を眺める、幼き天使の記憶。
忘れてはならない空腹。
廃楽園にてメルフィと過ごした記憶の断片を取り戻したカナリアは、真っ白な繭から解き放たれるとふらつく足で杖を手に取り立ち上がる。




