地表編 20話
「天使であるお前が、一体どんな風の吹き回しだ?」
「私は神殿で働いていた頃、幼いカナリアの遊び相手をよく務めていました。他の天使がどのような感情を抱いているのかは知りませんが、私とて、あなた様と同じ気持ちです」
「神殿で……そう」
「それに、マリア様。その傷を放置すれば、致命傷になりかねません」
アルザは身動きが取れないカナリアに愛おしそうな視線を向け、優しく微笑んだ。
「――分かった。では、この場はお前に任せよう。私は一度、天界へ撤退する」
「ありがとうございます」
「いや……お前のような天使がいたことに、私の方が感謝したいくらいだ」
マリアはアルザの肩を叩くと、無抵抗なカナリアの拘束を解き、心苦しそうに上空へ飛び立った。
「ごめんねカナリア。何度も拘束して……大丈夫かい? そういえば、これ。大切なものなんだろう? そうなんだろ?」
アルザは心の壊れたカナリアに優しく微笑み、遺書と木箱を差し出した。
「あ……それは……キルケの?」
絶望の中で虚ろになっていたカナリアの瞳に、微かな光が差す。
「やっぱり大切なものだったんだ。よかった」
「は、はい……ありがとうございます。本当に……ありがとう、ございます……」
カナリアがアルザから差し出された遺書と木箱に手を伸ばそうとしたその時、アルザは持っていたそれらをカナリアの目の前で地面に落とす。
「ありがとう? あは……あはは!! いいね、いいね、いいねぇ!! どうやら、お前の大切なものと俺は縁があるらしい!」
床に落ちた遺書を踏みつたアルザは態度を一変させて自らの頭に手を当てて高笑いを始める。
整っていた顔を醜悪に歪めたアルザは、見下すようにカナリアの髪を掴み上げる。
「懐かしいなぁ! お前が子供の頃、俺に飯をくれって縋ってきて、親の形見だった首飾りを差し出そうとした時の、あの顔!」
「それは……それだけは!!」
「弟を背負ってご飯くだちゃい、くだちゃいってなぁ!! ははは!! ほら、また縋れよ!! いつもみたいに、おねがいちまちゅぅってな!! 本当に、アンリユを!!お前を神殿から連れ出して正解だったよ!!」
カナリアの目の前で、アルザが嬉々としてシワだらけの遺書を拾って破り捨てようと手を掛けた。
その時、空がなんの前触れもなく暗く陰る。
「なんだ?」
巨大な何かが頭上を通過したにも関わらずそこにいる誰一人として、その存在を今の今まで感じ取ることができなかった。
「おい。これはどういう状況だ?」
どこから現れたのかも分からない男が発したたった一言。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、アルザは流暢だった言葉を詰まらせて無意識に身体を震わせ、距離を取っていた。
針のように鋭い眼光。
身長は二メートルを優に超え、フードでは隠しきれない額の角と逞しい体躯からは、一目で人という概念を超越した存在であることが窺える。
「もう一度聞く。これはどういう状況だ?」
遺書を破ろうとしていたアルザの手が止まる。
いや、止めざるを得なかった。
「は、はは……誰だよ、お前」
そもそも、本当にそこに存在しているのか疑わしくなるほど、男は何の前触れもなく忽然と現れたのだ。
本物なのか、それとも幻なのか、アルザはわけも分からず声を荒らげた。
「あのさ、お前さ。今、最高に楽しい場面だったんだけど……どうしてくれるわけ? ていうかさっさと名乗れよ」
「そうか。それを破くのが、楽しい場面だったのか。なるほどな」
「無視? 質問したよな? なら答えろよ」
アルザは破ろうとしていた手を下げ、自分の問いに一向に答えない男を睨みつける。
そして片手間に作り出した光の槍を見せつけ、威嚇した。
しかし男は、アルザを全く意に介さない。
その存在を空気のように無視し、倒れているカナリアへ声を掛ける。
「おい、そこの娘」
「……はい」
「名は?」
全てを見透かしたような、濃く深い緑色の有鱗目。
重たい圧力を孕んだ男の言葉。
少しでも癪に障れば殺される。
そう肌で感じたカナリアは、呼吸すら忘れながら声を絞り出す。
「カナ……リア……」
「カナリア? お前が――あの」
男の声が少し上擦る。
彼の視線の先をカナリアが怯えながら目で追いかけると、男はカナリアが堕天する以前から身に着けていたブレスレットを凝視していた。
「ああ、そうか……お前がキルケの愛弟子で、アンリユの娘か。遅くなった」
全てを悟った男は態度を一変させ、カナリアの頬を優しく撫でる。
「俺が来たから、もう大丈夫だ。あとは任せろ」
先程までの圧力が嘘のような、優しく愛情に満ちた声に、カナリアも驚きを隠せない。
「――あなたは?」
見覚えのない男へ名前を尋ねると、男は微笑んだ。
そして後方で笑っている天使からカナリアを守るように勢いよく振り返り、フードを捲って、その姿を露わにする。
「友の最期の頼みを聞き、この地へ足を運んだ」
意気揚々と名乗りを上げるその男を、この惑星で知らぬ者などいない。
「我が名は竜王カウル、この魔法時代を創った神である」




