地表編 19話
周囲には聞こえない声で呟いたマリアは表情を曇らせ、先程までカナリアの頭を撫でていた腕を天へと掲げる。
「一体何を……!? うぐ……」
空から殺意が消え、何か楽しいことを思い出したかのように動き出す天使たち。
ただならぬ気配を察知したカナリアは、自分を拘束しているマリアを押しのけて体勢を整える。
「はぁ、はぁ……」
乱れた呼吸をグッと飲み込む。
吹き出す汗が額から鼻筋を伝い、雫となって地面に落ちる。
同時に杖を拾い上げカナリアが最後の魔術を行使しようとした。 その時。
「少しでもキルケを褒めた途端にこれ。 結局、観測とは体験と大差ないのか。 見えない時間も所詮は観測の域を出ない――」
「ぐぶっ」
震えるカナリアに対し、マリアは一切の容赦なく、天使の輪でカナリアのその身体を拘束した。
「お願い。もう、これ以上は抵抗しないで――」
「ふざけるな!!」
顔から転倒し、拘束され、未だ流血の止まらないカナリアを見下ろす頭上の天使たち。
彼らはマリアからの合図を受け、興が削がれたような無気力な表情を一変させると、待っていましたと言わんばかりに手を叩き大樹へ向けて一斉に弓を構えた。
「カナリア、私は嬉しかった。 それなのに――自分の命すら削るなんて、それはダメだよ」
マリアの悲痛すら今のカナリアには響かない。
「やめて!! お願い……お願いだから……」
「ごめんね」
土が指先にこびりついた中指を一番遠くに伸ばし、何度も言葉を呼吸と共に殺すカナリア。
そんな姿を奥歯に噛み殺し。 マリアは瞳に深い失望が滲ませる。
「私の家族はキルケだけなの……思い出を……キルケが生きていた痕跡を消さないで!!」
「大丈夫、空にもあなたの居場所はあるから!」
「うるさい!! 気色が悪いのよ!! 人から思い出を奪って、それで笑って、諭して!! 見てきただけの貴方が私の心に意見しないで!!」
カナリアから向けられた怒りがマリアの心臓を貫いて、言い返せない程の罪悪感で顔を歪ませる。
マリア自身も分かっていた。 これ以上カナリアに対して言い返してはいけない。
自分の行った罪と向き合わなければいけないと。
それでも、無意識に息をするように本心が零れていた。
「――思い出って……ふふ。偽物でしょ?」
切実に、縋るように、地面へ伏して涙を流しながら謝り続けるカナリアに向けるべきでは無い言葉。
過去の記憶を持たない彼女が壊れていく姿は、あまりにも無垢で、痛々しいのに。
マリアは笑っていた。
「違う……偽物じゃ……」
頭を抱えて錯乱するカナリアを無視して、空で待機している天使が大声で喚き出す。
「おいおい! マリア、準備だけさせて待たせるなんて、生殺しが過ぎるぜ!」
「早く許可を出してくれ! そんな記憶もない抜け殻に、いちいち話す価値なんてないだろ!」
上空の天使たちが腹を抱えて哄笑する中、マリアは不快そうに舌打ちをし、空へ向けて花火を打ち上げた。
一斉に構えられた矢の先に、炎が灯る。
「え……? なんで……魔法じゃないの?」
疑問が、無意識に口をついて出た。
なぜ天使たちは、結界を破壊した無数の閃光を使わないのか。
火の雨が空を覆い尽くす、もはや手遅れとなった光景を前に、カナリアは呆然と考え続ける。
考えて、考えて、考えて。
それでも。
「意味が……分からない」
カナリアは力なく肩を落とした。
どれほど思考を巡らせても辿り着けない、至極単純な理由。
彼らはただ、玩具であるカナリアをどう扱えば、より長く楽しめるのか。
それだけを考えて行動している。
だからこそ、あえて低俗なやり方を選んだ。
カナリアの結界が魔術に限定されたものであり、物理的な攻撃ならば通ると分かって矢を放つ。
ただそれだけ。
「お願い、やめて……やめてください……お願いします……」
無意味な慟哭。 掻き消したのは、燦々と燃え上がる大樹と、桜道を呑み込む業火の音だった。
赤く揺らめく景色の中、舞散った黒い灰がカナリアの鼻を撫でる。
全てが同じ焦げた匂い、あの新緑も、あの本のカビた匂いも、うるさい虫の声も、その全てが掛け替えのない宝物だった。
――それなのに。
『――思い出って……ふふ。偽物でしょ?』
マリアに言われた言葉が、頭を過ぎる。
偽物なんかじゃない。
そう言いたかったのに、カナリアは否定することができなかった。
「力を与えられたのに……何もできない!!」
何一つ抵抗できず、ただされるがまま。
――なんで私は、こんなにも無力なんだ?
一方的に蹂躙される世界はあまりにも凄惨で、経験の乏しい少女の心など、容易く壊してしまった。
完全に戦意を喪失し、静かになったカナリアをマリアが眺めていると、蹂躙を終えた部隊長のアルザが、総司令官であるマリアの元へ戻ってきた。
「アルザ、貴様。部隊長でありながら、なぜ戻ってきた?」
ゴミを見るような冷たい視線を向けるマリアに、金髪の若々しい美貌を持つ天使は跪き、忠誠を示す。
「はい。あるものを見つけまして……せめて、これだけでもカナリアに渡してあげようかと」
そう言ってアルザがマリアに見せたのは、家を出る前にカナリアが机の上へ置いていた、キルケの遺書とナイフが収められた木箱だった。




