地表編 18話
大地を覆う冷えきった空気が、上空の暖気と逆転する。
踏みしめられた丘の草花は、しなやかな茎を針のように鋭く天へと突き立て、カナリアの怒りに同調していた。
もしカナリアが、どこにでもいる普通の神格人種に拾われていたなら、結果は天使たちの想像した通りになっていただろう。
カナリアは堕天した時から何も変われなかったはずだ。むしろ記憶を失っていたことで奴隷へと成り下がり、さらに悲惨な境遇へ陥っていた可能性さえある。
――しかし、それは普通の神格人種に拾われていたなら、の話だ。
神の子にして、神が唯一手を差し伸ばせなかった少女、カナリア。
記憶を失い、堕天した彼女がその先で出会ったのは、ほかでもない。
地表において大賢者と呼ばれた伝説の英雄、その一人。
――天使殺し、キルケ。
「っ……! まさかとは思っていたけど、天使に天使殺しの秘術を教えるなんて……懐かしいな。キルケ、あなたは私が見込んだ通りの――」
空を覆う魔法陣を見上げ、マリアは朗らかにほほ笑んだ。
それは、この場にいる彼女だけが覚えている光だった。
数十年前、スパルダエス率いる天使軍が、この地に存在する魔女の墓穴を襲撃したことで勃発した、人と天使による歴史上初の全面戦争。
当時、数千もの天使が空を埋め尽くした。
それに対し、キルケがたった一人でマリアを除く全ての天使を殲滅した魔法陣。
今、再び空を覆い尽くしているのは、まさしくそれだった。
マリアは不本意そうに、頭上の天使たちへ気の抜けた声で警告する。
「死にたくなければ逃げろ。……まあ、聞かないか」
死を直感したマリアとは対照的に、天使たちは未だカナリアが展開した魔法陣の危険性に気づいていない。
一人の天使が呆れた様子でマリアの隣へ降り立ち、その肩を叩いた。
「何言ってんだよ? まだ情なんてものに惑わされてんのか? 仕方ねぇから、俺がやってやるよ」
肩を叩かれたマリアは、目を伏せてほくそ笑む。
「――イデルバ。言われた通り、私は天使たちに“警告は”してやったぞ?」
複雑に絡み合う無数の数式が、空を埋め尽くす。
一般的な攻撃魔法は、天使にとって致命傷にはなり得ない。
ならば、天使の弱点とは何なのか。
そして、キルケはどうやってそれを知ったのか。
答えは、遺書に記されていた過去にある。
キルケが親友を殺したあの日、偶然発動した魔術。
それこそが天使殺しであり、スパルダエスが耳打ちした、天使の命を終わらせる方法だった。
偶然だった現象は理由を得て、再現を重ねた先で実用へと至った。
キルケが最後に見せた記憶。
不器用な彼女が遺した贈り物を、今度はカナリアが自らの意地で構築する。
「実行の火、連結の水、再構築の風、固定の地、発動の気、譲渡の光、確定の毒、強化の雷、終焉の闇。数字は九つに分かれた」
指先でなぞるのは、光の線。
光は輪となり、陣となる。
「終焉は九、闇は心。罪を譲渡し、四で固定、八で出力――一で、実行を開始する」
彼女の名は、堕天使カナリア。
この世界を堕とす、最悪の天使殺し。
「これが私の……いいえ、“私たち”の、あなたたちへの反逆。死して償え!! 天使殺し(エンジェルフォルト)!!」
カナリアの絶叫が空気を震わせる。
展開された魔術が神々しい光を放った瞬間、マリアの顔に張り付いていた笑みが引き剝がされた。
その表情は、絶望から興奮に満ちたものへと一変する。
「は、はは!! キルケ……とんでもない置き土産をしてくれたな!!」
マリアは空に向かって声を張り上げた。
「もう一度言う!! 死にたくなければ逃げろ! 逃げないのなら、力尽きるまで魔術防御を展開しろ!! 全魔力を注ぎ込め!! これをもってカナリア奪還を断念する! 死ぬ気で戦え!! あれは――私たちの天敵だ!!!!」
表情を歪めるマリア。
その目に映っていたのは、カナリアの隣に立つ若かりし頃のキルケだった。
命の残滓へと成り果てようとも、最愛の弟子の傍らで微笑んでいる。
『行くよ、カナ』
微かに聞こえる、亡き母の声。
もういないはずのキルケの声が、覚悟の灯ったカナリアの眼差しを揺るぎないものへと変える。
一気に注ぎ込まれた魔素が、最高効率で魔力へと変換される。
普通の天使では瞬時に把握することさえできないほどの、膨大な魔力放出。
天使殺し(エンジェルフォルト)。
それは九の闇属性を中心に据えることで根源的な恐怖心へ干渉し、六の譲渡によって、神格人種が抱く罪への罪悪感を天使へ共有させる。
その結果、天使の人格を崩壊させる、天使の殺害にのみ特化した魔術だった。
複数の魔法陣から青白い光線が一斉に放たれ、世界を覆い尽くす。
直後、辺り一帯に金色の星砂が降り注いだ。
反射的に防御結界へ全魔力を注ぎ込んだマリアを残し、空を埋め尽くしていた前衛の天使たちは、カナリアの魔術を浴びて人格を崩壊させた。
全身を溶かしながら、次々と地上へ墜落していく。
「天使であるはずのカナちゃんが、天使殺しを使えるってことは……キルケは、カナちゃんが人格崩壊を起こす寸前まで罪の自覚を共有させ続けたのか。カナちゃん自身に罪を理解させるために……そっか。すごいなぁ」
地表から昇天したマリアだからこそ、どうにか耐えられた。
しかし、既に天使として染まり切っている彼女も無傷では済まない。
結界を展開するため前へ突き出していた右手が、指先からゆっくりと朽ちていく。
噛み砕かれるような激痛が、腕を伝った。
「これ以上、前に出てこないでください。私は……今の私は、誰も殺したくなんてない!!」
全身のあらゆる場所から血を噴き出しながら、カナリアは切実に訴える。
だが、前衛が壊滅した以上、後方に待機していた天使たちも黙ってはいなかった。
「待って!! カナリアに近づくな!!」
これまでマリアの指示に従っていた天使たちは、その制止を完全に無視した。
カナリアを敵と認識し、彼女を殺すため一斉に動き出す。
その姿を見て、カナリアの罪悪感が僅かに薄れた。
「忠告はした――なら、死んで」
襲いかかる天使たちへ真正面から立ち向かい、絶叫に喉を震わせながら、天空へ無数の魔法陣を展開する。
鎖の形をした魔術、天使堕とし(エンジェルフォール)。
カナリアはそれを用いて、天使を一人、また一人と確実に殺していく。
僅かに触れただけでも致命傷となる数千本の鎖が、押し寄せてきた天使の大半を貫いた。
それでも、あまりにも多勢に無勢だった。
罪に慣れているだけで、完全な耐性があるわけではない。
カナリアは魔術を行使するたびに血を吐き、人格が崩壊しかねないほどの苦痛に襲われ続ける。
それでも、力を行使することだけは決してやめなかった。
もう死んでもいい。
もう、生きる意味なんてない。
『おねぇちゃん……ごめんなさい』
生きることを諦め、目の前の天使を全て殲滅しようとしたその時。
ふいに、脳裏を知らない少年の姿が過った。
僅かな隙が生まれる。
「しまっ――」
目、鼻、口。
あらゆる場所から血を流しながら、それでも一切手を緩めないカナリアへ、マリアが襲いかかる。
鬼気迫る表情を浮かべ、これまで見せたことのない俊敏な動きで無数の鎖を掻い潜り、全身を傷だらけにしながらカナリアを地面へ押さえつけた。
「これ以上は死んじゃうから……駄目よ?」
地面へ押さえつけたカナリアを見下ろし、マリアは肩で息をしながら、その頭を撫でる。
「触らないで……触るな!!」
愛おしそうに撫でるマリアの手へ、カナリアは怒号を浴びせた。
これまで感じたことのない、胸の奥から湧き上がる様々な感情。
その全てが、マリアの軽々しく口にする“愛”を許すなと、カナリアへ訴え続けていた。
「私は!! あなたたち天使を許せない!! 帰って!! 帰ってよ!!」
憎しみと悲しみが入り混じった視線を向けられ、マリアは目を逸らして口角を下げる。
「仕方ないのよ……もう、私の意思ではどうにもならない。ごめんね、カナリア。あなたに全てを背負わせた、無力な私を……許さないで」




