5話
「すみません。 わざわざ気にかけて頂いて本当に有難う御座います」
軽口を言いながらも感謝をするカナリアに優しく微笑むイデルバ。
「気にするな、それで? もしかしてと思って声を掛けたんだけど君、天洞に行こうとしてなかったかい?」
「それは……えっと……考え中でして……」
「君ね……」
どこか呆れた声のイデルバと目が合わせられない。
「言わなくってもわかってますよ」
視線をマリアから受け取ったバスケットに移すと、横から伸びてきたイデルバの手から食材を入れられ途端に肩が落ちる。
「ただ弟のことを考えると……迷ってた感じです」
弱弱しく小声で答えるカナリア。 最初は睨みを効かせていたイデルバも彼女の弟至上主義に呆れて頭を搔く。
「あのな。 インバードの事を思うならまず自分を大切にしろって何度も言ってるだろ?」
「でも!」
「お前が居なくなれば悲しむのはアイツなんだぞ? 遠回りして、遅れてでもいいから安全に帰りなさい」
優しい声音。 自分を心配してくれる天界で数少ない人に諭されるとバツが悪い。 特に族長であるイデルバなら尚更だ。
カナリアは言いかけた自分の意志を押し殺し、ただ純粋に目を伏せる。
「そう、ですね……すみません」
上手くなった作り笑い、安堵したイデルバを見ると胸の奥が楽になる。
――良かった、今日も私は天界で生きていいんだ。
本当は敬語を使いたいがイデルバはどうにも気楽に接した方が機嫌がよく。 だから私は彼に対して自然と軽口を選ぶ癖がついていた。
言葉が崩れると距離が近くなる。 別にイデルバが嫌いと言うわけではないが、どうにも言葉の距離が立場の距離を曖昧にして息が詰まるのだ。
ぐるぐる回る思考。 首筋からひんやりと汗が滴る。
「分かったのならいいさ。 それにしても君は相変わらず弟を優先するんだね」
「はい。 お母さんとの約束なので。 インバードは私の唯一の……家族ですから」
「お母さんとの?」
早く離れたい。 そんな思いとは裏腹に、話を広げるイデルバ。 いつもならすぐに終わるのにやたらと長話をするのはマリアの娘、つまりイデルバの娘が地表で何かあったことと関係あるのだろうか?
「? はい、今朝、なんか思い出しちゃって……」
居眠りしていた事は言い出せず。 カナリアは少しだけ言葉を濁してイデルバの質問に答えた。
「――へぇ」
歯切れの悪い相槌、やはりイデルバの様子は今朝のマリアと同様だ。 普段の柔和な感じではなく一つ一つのしぐさが空元気でどこか余裕のない。
一瞬だけ、緊張が走る。
「で……でも、それだけですよ?」
カナリアが顔色を伺うようにイデルバを覗き込むと、気のせいだったのかイデルバは目をパチクリとさせてからいつもの――薄気味悪い笑顔をしていた。
「そうか。 まぁ後でマリアにでも聞いてみるか」
――あ、間違えた。
何が問題だったのかは分からない。 だけど、なんとなく。イデルバの小さな一言に体からすっと血の気が引いたのを感じた。
「マリアさんは何も知らないんです!」
焦って踏み込む石畳の道。 高くまで張り巡らされたレンガ造りのスラム街。 感情のないイデルバの瞳に訴える震えたカナリアの声。
しかし、世界がそれを隔絶しようとしているのか。 建物の隙間に差し込む朝陽がまるでカナリアとイデルバを隔てるように足元で一本の線となった。
「私が居眠りしちゃったのが――そのせいで変な夢を!!」
焦るカナリアの言葉をかき消すように、冷たい向かい風が街路を吹き抜ける。 風に煽られて目を眇めるカナリアとは対照的に、イデルバは目を見開いてじっと表情一つ変えずにカナリアを見つめていた。
「そうか。 そうだったよな! いやぁ楽しみだ!」
気持ちの悪い感情の移り変わり。 見てはいけないものにすら見えたイデルバの横顔は、瞬き一回で嬉しそうな笑顔に変わる。
その様子に息を忘れて硬直するカナリア。 イデルバは今も嬉しそうにハハと笑いながらカナリアに近寄って頭をわしゃわしゃと撫でて額にキスをする。
「ま、なんであれ天使共の様子がおかしいのは事実だから今日は直進して帰るんじゃなくて、遠回りで帰って決して家の敷地から出ないようにしなさい。 また後で家に伺って何があったのかは報告してやるからさ」
「えっと――あの――すみま――」
「敬語、なんで?」
「ご、ごめんなさい。 取り乱してしまいました」
乱れる呼吸を整える間もなく、カナリアは大きく息を吸ってから頭を下げる。
「気にしなくっていいさ。 さ、早くおかえり」
「はい。 イデルバさんも気をつけてくださいね!」
「あぁ、もちろんだ」
そう言ってカナリアは食料を受け取るとその場でイデルバとは別れ、彼の忠告通り裏路地へと身を潜めた。
直進で突っ切って帰宅できれば楽だった。
言えなかった本音が消化できず、唾液がやたらと飲み込めない。
ただイデルバの言ってることは間違いない。
カナリア自身も無邪気な天使達に変に目を付けられると後々厄介な事は重々承知していた。
分かっている。 だけど虚しかった。
「おいあいつって……」
「あぁ間違いない」
クスクスと聞こえる嘲笑と奇異の目を道行く端端から感じながらカナリアはスラム街を小走りで駆け抜けた。
気持ちの悪い視線、異質な天界。
何人かカナリアの後ろを追うように歩いてくる違和感。
上がる心拍数、ロウソクの焦げた匂いが鼻につく。
異質な空気を危険だと肌で感じたカナリアは風で捲れないようにフードを両手で強く握りしめて帰路を急ぐ。
ずっと感じる背後の人影。 入り組んだ路地を糸を縫うように走り抜ける。
そんなこんなで息を切らして走り続ける事およそ一〇分。
妙な気配はどこかへと消え、何とか街を抜け出したカナリアは荒れた砂利道から見慣れた森の獣道を歩いていた。




