4話
スラム街より標高の高い観測所を背に見開けた雲海を眺めて歩く二km弱の帰り道。
朝焼けに燃えるオレンジに染まった十字都市。
カナリアは熱を持つ陽の光に目を細め、地表から運ばれた澄んだ空気を頬に浴びる。
――嗚呼なんて綺麗なんだろうか。
小さく開いた口、ため息混じりの白い吐息が空に溶ける。
マリアから聞かされた天洞の真実。 それがカナリアには未だ受け入れられず、ほんの少し歩幅が小さくなる。
確かに夜勤前、昨日の段階でも天洞は騒がしかった。 もし堕天した神の妃に何かあったのなら天使たちは今も天洞から地表を見下ろしているのだろうか?
みすぼらしい服、娯楽にふけるばかりの騒がしいスラム街。
それを思えばほんの少し、同情すらしてしまう。
カナリアは地平線を眺めて肺いっぱいに空気を吸い込む。
きっと私よりずっと長生きな天使達は雲すら規則を持つこの世界を今日も”変わらない”と決めつけて、今と云う唯一の夜が朝を迎える変化にすら気が付けないのだろう。
それは永久に続く命ゆえの弊害か。
それともいまだ幼い私の経験不足か。
独りふける帰り道。今日という当然の始まりすらカナリアにはただ愛おしく、彼女の瞳だけが陽の光にのみ込まれる星の瞬きを観測する。
遠く、綺麗な彼方の星々。
そして、それとは別で頭上で存在を主張してやたらと目の端に止まる黒く大きな衛星。 天使族の族長であるイデルバがあの黒き天体について一度だけ教えてくれたことがある。
「色の神――」
この星にも神がいて、星の外にも神がいる。
ならば神とは一体何なのだろうか? 世界を創造する種族? それとも天使みたいにただ地表に生きてないことを言いことに他種族を見下す何か?
どちらにしても私には関係ない。
ただ――思うことがあるのなら。 空から覗き込む黒き星、私はあれが不気味で好きではない。
綺麗な星の邪魔をする、星に似つかわしくない衛星。
カナリアは頭上の衛星を鋭い目で睨み、ため息をつく。
「……帰ろ」
何をやってるのだろうか。
我に返ったカナリアは、マリアに無理やり背中を押された帰り道で小石を蹴って歩く。
砂利が靴底に擦れる。
踵が本当にこれでよかったのかと最初に地面について主張する。 足が重くなり、ふと観測所を振り返る。
小さく見えたマリア。 凛とした姿で観測に勤しむ姿は自分とは対照的で、人の心配だけは一丁前にする自分が惨めで苦しくなる。
「馬鹿みたい……何様よ」
本音を言えば悲しんでいるならそばに居たい。
だけど与えられた事すらこなせない私が瞼の裏にしっかりと焼き付いて、見事なまで自惚れだと分不相応な自尊心が気づかせてくれた。
「――お腹、減ったな」
ふと視線を下げるとバスケットの中から果実が顔を出す。
口の中で甘ったるいクッキーの残りカスが転がり、唾液で口内が充満する。
情けない。 つまるところ私という生き物は、大切な人よりも自分のことばかり考える愚か者のようなのだ。
「ごめんなさい……マリア」
昨日の今日だ。 弟が空腹で泣いてるはずがない、そんな事は頭の中では分かっている。
だけどもしかしたら、また声も上げずに家の隅で埃をかぶっているかもしれない。
『インバードをお願いね』
夢。を見たせいだ。
まるで今朝見た夢に連鎖する様に過去の記憶が脳内で蘇り、抜け落ちていたピースが揃うように今更になって母と最後に交わした約束を思い出すのだ。
まるで奪われいていた記憶が開いていくような違和感。 夢の最後で、誰かが私に問いかけた言葉をふと口にする。
「思い出した?――あれは一体……私、夢の中で誰と出会ったの?」
自分が自分と乖離するような感覚。
カナリアは唇を噛み締め、帰宅を急いだ。
「インバードが起きる前に――朝食の支度や衣類の洗濯とやらなければならない事は山の様にあるもの」
とぼとぼと家のあるケレナ大森林へと向かう最中、観測所から下山して都市中央にあるスラム街へと足を踏み入れると、カナリアの表情が消え失せる。
「行くか」
そこはマリアが嫌悪する天洞を中心に栄える街。
十字都市は中央に形成された天洞を軸に東西南北、浮遊した大地が点在する。
北の観測所、南の大森林、東の神殿、そして神殿からあえて遠ざけられた位置に存在する神すら嫌う鋼鉄の”廃楽園”。
ふと目を向ける鉄の塔。 母アンリユが残した手紙に、唯一綴られた頼るべき場所。 何があるのかは知らないがイデルバが行くなと言っていた。
「――ッ」
マリアの話から何となく察してはいたが、いざ目の当たりにするとその異様な光景に口元が引き攣る。
普段は生気のない天使が、まるで祭りのように活気づき、語らいあっては酒を飲んでいるのだ。
「また天使を神と勘違いして祈ってやがる! 神格人種は本当に馬鹿だよな!」
「今朝はやけに煩いな、どうした?地表で何かあったのか?」
「あぁ! 聞いてくれよ!! それがさ、あの記憶を失った堕天使が救世主扱いされて挙句封印されたんだよ」
「封印だって!? だったらもうあの女の物語はおわっちまったのかい?」
「これがまた傑作でさ! 村長に聞いた話によれば、次は――その娘らしい」
「は!! はは!! やっとか!!」
「前に堕としたアルザの姉なんて四肢を失って売り飛ばされて、それでも未だに生きてるらしいぜ!?」
「あのアルザの!? そりゃ傑作だ!!」
やはり普段とは打って変わって堕天者の一件でお祭り騒ぎ、よっぽど衝撃的なことがあったのだろう。
それに娘? もしかして神殿にまだいる子供を堕とすって話?
神様に子供がいるなんて初耳だ。
カナリアは嫌な予感がしたが、今はそんな事はどうでもよかった。
「ここを突き抜けるのは無理。かも」
家は都門とは真反対、最短ルートはこの大広間を突っ切る事だけど……やっぱり無理がある。
カナリアはそっと建物の影から顔を出して半目で『掃けろ』と念を送ってみるが、彼女の願いは虚しく、広場には人が逆に増え始めた。
チラチラと様子を見ながら思い悩むが、これ以上人が増えたらいよいよ帰れない。
弟が待っている家に早急に帰らねばならない。 カナリアはバレなければ問題ないと自分に言い聞かせ、リスクを取ってでも大広場を抜けようと決心した。
「バレそうになれば逃げればいい。 気をつけて当たり前を装って……バレたって、数回の……むち打ちで、終わる。 だろうし」
カタカタと震える奥歯。 願うようにネックレスを握りしめて、フードを深く被ってから天洞に集まる人混みに紛れ込もうと覚悟を決めた時。
真後ろから突然肩を掴まれて心臓が止まりそうになる。
「カナリア、何でこんなところにいるんだ?」
大衆が集まる場所以外で見つかると、危険だ。
カナリアは天使の輪をナイフに変えて殺す勢いで反射的に声の主の首元に突き立てる。
「おっとすまない。 驚かせるつもりはなかったのですが……慣れ過ぎじゃないか?」
申し訳なさそうに語り掛けてきた聞き慣れた声。
それに安堵したカナリアは胸を撫で下ろし、ナイフから手を離す。
「イデルバさん……ビックリするじゃないですか。 自衛しないと――殺される前に殺す、そうじゃなきゃ弟は守れない、ので」
呆れたように肩を落とすカナリアは表情を変えずにため息を漏らして、目の前に居たのはウェーブが掛かった長髪の中年男性に声をかける。
「いや、すまないすまない。 君に今日の食料を持っていこうとしていた所、偶然姿が目に入ってな。 驚かせるつもりは無かったんだが……もしかしてもう要らなかったか?」
カナリアの肩に置いていた手をすぐに退け、眉を上げたイデルバが焦った様子で陳謝した。
「いえそんな、ただ毎回言ってるんですけど驚かすのやめてもらってもいいですか?」
「それが生きがいだからね!」
「そんな生きがい捨ててください。死にますよ? まぁご夫婦にはいつも食べ物を恵んでくれて感謝してもしきれませんが」
「死ぬじゃなくって殺すだろ? んじゃ、まぁこのご飯でチャラにしといてやるよ!」
「イデルバさんがチャラにするんですか?」
「ならいらないの?」
「いえ、もう言質はとったので貰いますよ?」
「図太いなぁ。 まぁ上げるつもりだったし!! 構わないんだけどね」




