地表編 12話
幸せそうに眠るキルケを眺めるカナリアは、名残惜しそうに、その片手を決して離さないように、強く、強く、包み込むように優しく。
落とさない為に慎重に、確かに両手で握っていた。
それなのに意思を持たない筈のキルケの手はカナリアの握っていた手から音も立てずに擦り抜けた。
「あれ? なんで? あれ?」
急いでカナリアは視線を落とすが握っていた手は何故かベッドに見当たらない。
確かに今さっきまで握っていたあの若々しく艶のある手が、生命力に満ちていたあの手が、私の頬を、頭を、撫でてくれていたあの愛おしい手が……
「見当たらない」
ふわつく意識。
目の前にあるのに見えないのはまだ現実を認識出来ていないから、魔術が解けて横たわっている老体をキルケなんだと認識できていないから。
本当は分かっている。 だけど、認めた瞬間に何もかもが終わる気がしてカナリアは”死”をまだ言葉ででしか抱えきれなかった。
ベッドを何度も見回し、初めて幸せそうに涙を流して眠りについている老体がキルケであるのだと理解をした時。カナリアは震える手で改めて変わり果てた皺くちゃの手を握り締めた。
「こんなにも……私はキルケを見ていなかったなんて……」
信じていた。
自分の握っていた手は変わらないモノで老いなど所詮は歳を重ねるだけの造語に過ぎない。 命など奪われなければ永遠に続くモノなのだと思っていた。
でも目の前の女性の遺体が”命とはそうなのだ”と物語っていた。
もう二度と声すら聞こえない事を悟れば途端に心臓がズンと重くなって、死というものの身近さに頭が真っ白になって思考が止まる。
綺麗だった空色の髪は白く薄く、痩せ細った体には鎖骨が浮き彫りになり、皺だらけの顔には年季の入った知らないほうれい線がくっきりと出ている。
認知していた容姿とは何もかもが当てはまらない老体を、カナリアは知らないのに、知らない筈なのに。
老体の口元が、目元が、優しそうに笑うから、知っている顔で笑ってるから……
「………………」
奥歯をカタカタと震わせながら目を見開いて直視する。全てが自分の押し付けた理想で、今まで見ていた慢心が幻想だったのだと漸く理解した。
そうすれば――見つけられなかったキルケの本当の手をやっと握れた。
「約束だもんね。 私は大丈夫だから、泣かないから。貴方の目の前じゃ泣かない……から……」
自分のエゴで時間を奪った事を悔やんだキルケはもう此処にはいない。
漸くそれに気づいたカナリアは、握っている努力に塗れた老婆の手のひらを自分の頬に当てる。
「ごめんねキルケ。 私、あなたを生かす事ばかり考えて……貴方とちゃんと向き合えていなかった」
生きて欲しかった、何とかなると思っていた。
本当は気がついていた。 それなのにキルケを助けるなんて自分のエゴを、勝手な大義名分だと言い張って、本当のキルケの姿を見ないように言い訳して、魔術研究に逃げていた。
「あぁ、でも、そっか。キルケの目はもう開かないのよね。私はもう――二度と、貴方のその目に映ることはないのよね……もっと大きくなる予定だったのに――」
いつぶりにキルケと目を合わせたのだろう?
彼女の寿命が近いことは目に見えていたはずなのに。
私は知らないふりをして研究に没頭し、挙句まともな成果も出せず。最後の時間しかキルケとまともに過ごすことが出来なかった。
「笑えない。 本当に笑えないのよキルケ、おかあさん」
歯ぎしりを立てる。
俯いて瞬きを我慢してみるのが、どうにもこの瞳は私の言うことを聞く気はないようだ。
『カナリア!』 『カナリア?』 『カナ』 『愛してるよ。 カナ』
巡る思い出が脳裏にフラッシュバックする。
「でも。 約束だから」
泣かない。 泣いちゃいけないんだ。 なんども自分に言い聞かせてきていた言葉が何故か今日は効果が出ない。
ほつり、ほつりと頬を伝い零れ落ちる雫はカナリアの意思とは関係なく、床にある木の窪みに小さな海を作り上げていた。
「死んでから貴方ともっと過ごせばよかっただなんて……私は本当に……馬鹿だ」
キルケは死ぬ前に命のスケールでカナリアを見た、故に謝罪が出来た。
だから悔いはなかっただろう。
しかし、カナリアは別だった。
「あ、ああああああああああああああ。 会いたいよ……もう一度あいたいよぉお。 おかあさん、お母さん。 おかあさん!!」
先に立たない後悔を嘆き、ただひたすらに声を枯らして泣いた。
悶えるように、縋るように、カナリアは命の価値と重みに耐えられずその場で膝から崩れ落ちて喚いた。
次は離さない。
今更になって握る手から体温が少しずつ世界へと奪われていることに気が付きカナリアは初めて実感する。
彼女は文字通り二度と目を覚ます事はないのだ。 もう、笑って、怒って、喜ぶキルケとは会えないのだ。
キルケの死後。カナリアは丸一日その手を握り続けてから腫れた目を擦って、翌日にはキルケが安らかに眠れる様にと家の大樹の側に墓を作った。
ありがとう。そう思いながら土を掛ける。
少し、また少し。彼女の存在が自然へと還る。
それが自然の摂理なのだと頭ではわかっていても、土をかける度にこの手は動かなくなった。
たった一杯の土が、はらりと落ちる少量の砂が、今までの思い出を自分の手でかき消すようで、土すらまともにかけられない。
溢れ出る涙に視界を奪われながらも、それでも。 なんとかキルケを弔った。
それからはご飯ものどを通らず何日間かは塞ぎ込んだが、このままじゃダメだとカナリアは自らを奮い立たせ、今まで手付かずだった遺品整理を行った。
ただ気を紛らわせたかった。 少しでも前に進まないとキルケに怒られると思った。
慌ただしく無駄に動いて過ごす日々。
ただ考えない様に。
それでもふとした時に家に確かにあった暖かみに思いを馳せて胸が締め付けられた。
もしかしたらまだ彼女は生きていて、昔見た隠蔽魔法で隠れていて……ふと現れて揶揄ってきて……
ホロリと頬を伝う水滴がポタリと静寂に包まれた家に音を立てる。
「そっか……確かにこの家に一人は寂しいな」
背後の扉から漏れる逆光が自分の影を一つだけ床に投影すると、死ぬ間際にキルケが言っていた独りになってしまう恐怖が妙に腑に落ちた。
過去の様に褪せるこの家は一人で暮らすには広過ぎて、長方形の机と二つの椅子、台所に立てかけられた二人分の食器、空室になった部屋の扉、目に見える全てが余分で、その余分が辛すぎて、キルケは死んだんだと突きつけられる。
人の影を不意に探す日々、目的を失ったカナリアが途方に暮れてキルケが余生を過ごした部屋のベッドに座っていると何の前触れもなく棚から身に覚えのない木箱が落下してきた。
「これは?」
落下の衝撃で飛び出た手紙と歪なナイフ。 カナリアは直感した。 その手紙がキルケの遺書なのだと。
母と慕った彼女が死後、自分に何を伝えようとしたのか。
震える指で封を破り、カナリアは文字を追った。
……もしこれを読んでいるなら、私はもうこの世にはいないだろう。カナリア、あんたには伝えておかなくてはならないことがある。
そこで文字は途切れ、滲んだインクが涙の跡のように紙を汚していた。
「……伝えておかなくてはならないこと?」
首を傾げるカナリアの視界が、ふと揺らぐ。
次の瞬間、脳裏に浮かんだのは見たことのない、しかし確かな“キルケの記憶”だった。




