地表編 11話
「虚数域のことかい? あれはね。 竜神カウルが、隠居して直ぐに感謝の気持ちとか言って勝手に作った場所さね。 ここなら魔法に触れても、地表の裏だから安全だって作ってくれたのさ」
さらっと流すように語られた虚数域へと繋がる扉の成り立ちにカナリアは愕然とする。
「感謝の気持ちで家の個室を勝手に魔改造するって、竜王カウルは規格外ですね」
「あぁ。 規格外で、規格外だからこそ孤独な奴さ」
初耳の情報に、キルケが常識人を自称していた理由が妙に腑に落ちてしまい、カナリアは困ったように眉を顰めた。
「確かにあの場所において魔法の失敗はただの不発に過ぎませんし、練習場所には最適ではありますが、感謝の気持ちで勝手に家を地表の裏に繋げるのはおかしくないですか?」
「そりゃ人間じゃないからね。 カナも中に入った時に感じただろ?保護された魔素の膜で覆われた灼熱。マグマの流れる露岩地帯。あそこは長くいていい場所じゃない」
今日は元気がいいのか笑い声を上げるキルケにカナリアは少し安堵する。
「そう、ですね。でも、私は真っ暗な世界から見える星々、嫌いじゃないですよ」
くしゃっとした笑顔をするカナリア。あどけなく、困った様子で、それでもいいところを探そうとする言い草に、キルケは意気揚々と語っていた口角を突然下げて間を開ける。
「……カナ……昔話したアンリユについて……覚えているかい」
「え? えっと……アンリユですか? 覚えていますよ。確か私が目指すべき人間……でしたよね?」
今もそうだと思っているカナリアは、突然聞かれたキルケからの質問に首を傾げた。
「そうだ」
罪悪感で押し潰されそうなキルケはカナリアを一瞥もすることなく、唇を震わせて息苦しそうに言葉を選ぶ。
「そうだ、そのアンリユについて……私はお前さんにずっと隠してることがある。 アンリユは、天使で……その姿はカナと、瓜二つなほどよく似ていて……それで……」
――もう時間は残されていない、きっとこれが最後――
霞む視界で虚空を見つめるキルケは張り裂けそうな胸を右手で押さえ、絞り出すように更に言葉を紡ぐ。 カナリアはそんなキルケの声に瞼を閉じ、微笑みを絶やさないまま相槌を打つ。
「あ……アンリユは、カナリアの本当のは……母親だ。 ごめんね。 ずっと言えなくって……ごめんね、私は……カナが記憶を取り戻すのが、怖かった。 きっと思い出せばカナは空に帰って……此処から居なくなる。 そうしたら、あたしゃ孤独になってしまう。 それがどうしようもなく……ただ怖かったんだ。 何年も縛り付けちまった。 本当に……本当にごめんね。 カナリア」
たがが外れたようにキルケの口から溢れ出る後悔と懺悔。 最初は”いずれ言えばいい”。その程度の軽い考えだった。
それなのに時間が重なり、愛が重なり、キルケが死期を悟った時、それは既に自分自身では手に負えないほどに複雑に絡み合った巨大な痼りになっていた。
ベッドの上で毎日延々と繰り返す自問自答の日々。
どんな顔して伝えればいい?
どんな軽蔑の視線を向けられる? 罵られるか? 激昂するか? 絶縁なんて言われたらどうしょうか?
二十一年もカナリアの人生を縛り付けたのだ。もう後戻りなんて出来ない。
目を逸らさずに歩み続けたキルケとして生きる転生最期の時、死の淵で後ろ髪を引っ張ったのは今までの不条理な選択でも、向けられた恨みつらみでもない。
ただ先の未来を生きる大切な家族から選択の時間を奪った後悔だけだった。
苦しくなる心。 それなのにカナリアは老いた自分を生かす為に嫌いな魔術研究に明け暮れて、純粋な努力と笑顔でいつも変わらない「愛してる」を語り続けてきたのだ。
それがキルケにとって、気が付くと恐怖へと変わっていた。
『おかあさん、ありがと!』
いっその事グチグチと五月蝿い老婆だなと悪意を向けてくれていたなら。
陰口を言ってくれたなら――どれだけ。
『おかあさん? 体調は大丈夫?』
『おかあさん、今日のご飯、力作なんですよ!』
それなのに嫌な顔一つせずにベッドから動けない自分の面倒を見続けるカナの優しさがどうしようもなくお節介で。
自分が望んで真実を伝えなかった結果。
こうなる事は火を見るより明らかだった。
それなのに。それなのに。
『世界一、大好きですよ』
――この場所に留めさせ続けている罪悪感が、心の片隅でずっとキルケを蝕み続けて、気がつくとカナリアと目すら合わせられなくなっていた。
そして今。 死ぬ間際になってどうしようもない自己嫌悪が喉を押しつぶし、言いたいこともまともに言えなくなってしまっている。
こんなになるまで向き合わない自分はなんて汚い人間なんだろうか。
赦しを請うように、自分に都合のいいように今更吐き出して真実を押し付ける。
楽になりたかった。 死ぬ前ぐらい、身軽に逝きたかった。 だけど天使であろうと人の人生を二十一年も拘束したのだ。カナリアに呪われ、恨まれても仕方がない。
――散々天使に縛られた私が、最後に天使の人生を縛ってしまったなんて――
「本当に、皮肉な人生だ」
今まで張っていた肩の力が抜ける。
最後まで自分は弱く情けない人間なのだと、自己嫌悪に浸りながらキルケはゆっくりと数ミリ開いた瞼を閉じようとしたその時。
「ありがとう」
もうほとんど瞼は開いていないのに、キルケは自分を覗き込む女性が誰なのか直ぐに分かった。
数年間、まともに真正面から目を合わせなかった。
しかし、どれだけ髪が伸びていようと。アンリユと瓜二つの大人びた女性に変貌していたとしても。
キルケはそこにいるのが今を生きているカナリアだと理解できてしまう。
「あ、ありがとう……だって?」
「うん、ありがとう、キルケ。 私は、私はこの二十一年に後悔はありませんし、寧ろ感謝をしてます。 無知な私に知識を与えてくれてありがとう。 愛してくれて……ありがとうおかあさん」
目の前にいるのがカナリアだと分かっているのに、その姿と重なるのは凡そ七十年前に出会ったアンリユだった。
『ねぇ。 キルケ、私と出会ってくれてありがとう』
『アンリ、あんた分かってんのかい?? 私があんたを外に連れ出して、そのせいで天使に探知されて、片翼もがれたんだぞ? 私はあんたを利用したんだ。 墓穴を護るなんて名目でね』
『ふふ、でも結果として守れたから良かったじゃない。 私は、きっとこの墓穴を護るために堕ちてきたんだと思う』
『はは、だから人柱になるのか?』
アンリユを殺しに来た天使を殲滅した翌日。彼女は片翼を失っても尚笑顔でキルケに対してそう言うから、キルケは自分が楽になるために敢えて悪態をついた。
『ねぇ。キルケ。 また会えるなら、次はもっと――』
愛に満ちた言葉を溢したアンリユ。青白く発光する全身は、水が氷るかのように少女を足元から青く美しい鉱物に包んでゆく。
『意味が分からないね。 本当にこれで良かったのかい? そんなに死にたかったのかい? はは、だったら連れ出して正解だったさね!』
『ええ、死にたかった。 でも、もう少し、生きたいって思えた。 だからキルケ』
「『ありがとう』」
蘇る過去と重なる記憶。懐かしさに浸りながら震える唇でキルケは呟く。
「や、やめてくれ、あたしゃその言葉が大っ嫌いなんだよ」
なんであの時アンリユは感謝したのか。 その言葉の意味を理解できなかったキルケは、漸くアンリユの言葉の真意に気がついた。
感謝した理由。 それは真実を知って尚、自分にとって全ての時間には価値があったのだとキルケを肯定してくれているのだ。
つまり、ずっと前に伝えたところで、カナリアはきっと、今と何も変わっていなかった。
「アンリユも……私との時間を……」
疑心暗鬼に囚われて……大切なものすら見られなくなっていた事に最期に気づいたキルケは、心残りはもう何も無くなったと言わんばかりに口角を少しだけ上げて、安堵した表情で最後の息を静かに吐き出した。
「なんだ、ただの杞憂だったのかい」
捻くれた捨て台詞。
ほくそ笑んだ老婆はゆっくりと瞼を閉じて涙を頬に伝わせる。
「おやすみなさい。 キルケ」
カウル暦八七年三月二八日。
桜舞い散る季節に魔術師キルケはその生涯に幕を閉じた。




