地表編 8話
怖いと思った。
絶対的な恐怖が全身を駆け巡り、ただその場で息を呑むことすらできない。
瞬きを三回すれば天に登った真水はあたり一帯にゲリラ豪雨の如く二人の頭上へ降り注がれる。
「一番害のない数字ですらこの威力だ。 我ながら恐ろしいよ。そして更に恐ろしいのはこのちっぽけな、惑星ですらない、更に果て、宇宙すら揺るがす根源――色彩」
いまだ青く透き通った空を見上げて今もなおこちらの様子を窺うように漂う大きな衛星をキルケはにらみつける。
語るキルケなど露知らず。
ただ魔法という世界の理に干渉する力を目の当たりにしたカナリアは悟る。
この六年間、キルケが決して魔法と魔術を片手間で教えようとしなかった理由を。
それはきっと中途半端に教えることが命に関わるからなどではない。
安易に扱えば最期、世界すら滅ぼしかねない力だからだ。
「む、無理いいいいぃぃぃぃいいいいいいいい」
掠れた声のカナリアは、四つん這いになりながらキルケの足元に這い寄り、そのピンクのスカートを握りしめる。
「いや、無理って……大丈夫。 出来る様に……」
「む”り”ぃ”!!」
大きく潤んだ瞳。泣く寸前のお菓子をねだる子供のような顔はまさに小動物そのもの。
あまりの可愛さに、強張っていたキルケは表情を緩ませて母性をくすぐられる。
「あー!もう!ごめんごめん! アンリユ基準がよくなかったさね。 さ、もうすぐ夕暮れ時だし帰ろっか」
「うん……」
涙は見せないが鼻水で顔はくしゃくしゃ。
カナリアは小さく頷いてからキルケに向けられた背中にそっと手を掛けてその身を預けた。
「ありがとう、キルケ」
「何だい突然? お前さんらしくもない」
「なんか。 分かんないんだけど……うんん。 何でもない。 へへへ」
キルケの優しい背中に、カナリアは嬉しそうに顔を埋めて微笑んだ。
「全く。私も、骨が抜けちまったね」
甘えられている事に気づきつつも気がつかないふりするキルケは、それ以上言葉を紡ぐことはなくただ無言で来た道を歩いた。
暮れに燃える太陽とオレンジに色づく砂利道。
優しさに包まれながらキルケと一緒に揺れる体の感覚が今のカナリアには思い出せない懐かしさを瞼の裏に投影して心が変に締め付けた。
『カナリアはだっこが好きだね。』
目を瞑った世界。
『おねえちゃん、大丈夫?』
確かに有ったけど無くしてしまった記憶の声はどこか懐かしく、優しさに満ちていて、キルケの首に回していた両腕に少しだけ力が入るとカナリアはホロリと二粒の涙を流した。
「カナ?大丈夫かい?」
「…………」
少し強くなったカナリアの腕の力にキルケが心配をして声を掛けたが返ってきたのは寝息だけで、気がつくとカナリアはキルケの背中に体重と全幅の信頼を預けて意識を落としていた。
「老体を酷使するなと言ったカナが、一番私を酷使しているんだけどね……」
起こさない程度の声量でキルケは愚痴を溢しつつ、未だ変わらぬ幼いカナリアの姿を横目に不思議と幸せで胸が満たされながら踵を鳴らした。
翌日。
「魔法は危険です!! 抗議します!!」
朝まで熟睡したカナリアは目を覚ますや否やキルケの部屋へと赴いて魔法学、魔術理論を習う事を激しく拒絶していた。
「いい加減にしろ!!!! お前を養う代わりに約束したのを忘れたのか!!」
「私がした約束は”目の前で泣かない事”とおかあさんの培った”魔術の会得と意思を継ぐ事”で魔法の会得は含まれていません!! よってこれは無効です!!!!」
「だーかーらー! その魔術の会得には魔法学は必須だっつてんだよ!!」
「でも、アンリユさんは記憶がなくっても出来たんですよね?」
「アンリはアンリ! カナはカナ!!」
大声で怒鳴り合いながらもキルケは屁理屈を捏ねて反発をするカナリアの説得を諦めず、改めて魔法学と魔術理論についての説明を行う。
「いいかい? 確かにカナの言う通り魔法を学ばずとも魔術の行使は可能だ。 しかしそれは飽くまで”既に在るもの”しか行使できないってことさね」
「じゃあキルケが作成し終えている数多の魔術があるから何も問題にはないじゃないですか」
「既に在るものってのは魔術式の話をしてるんじゃないんだよ!! ったく本当に無駄に頑固なのは誰に似たのやら……」
「魔術式じゃないなら既に在るものって何のことですか?」
漸く耳を傾けだしたカナリアに、キルケはため息をついてから少しだけ躊躇ったように間を開けて魔法を学ぶ最たる理由を重い口で語った。
「”在るもの”ってのは目に見えて実在するものさね。最初にも言ったが私がお前さんに継承するのは”天使を殺す魔術”だ。 魔法は魔術と違って刻印も出来ない。概念への干渉、つまり目には見えない。 しかしそれこそが天使を殺す魔術の根源に繋がっているんだ。 だから根本的な魔法学を疎かにできないんだ! 分かったかい」
「分かります! 分かった上で、私は嫌なんです。 無理なんです」
ぐぬぬと口を歪めて苦悶の表情をするカナリアの言葉と複雑な心境に無理に押し付けても仕方がないと悟ったキルケは半目で睨みつけた後、近くの椅子に座って頬杖をつく。
「今更だがなんでそんなに反発してるんだい? 無鉄砲のお前さんのことだから魔法を見せたら目を輝かせて食いついて……いや。噛み付いてくると思っていたんだが」
深呼吸混じりにキセルを口にしてから声音を落ち着かせたキルケの質問は知識欲が人並み以上のカナリアを知ってるからこそ出た至極当然の疑問だった。
「そりゃ私だってずっと楽しみで楽しみで、この日を待ち侘びていましたよ」
「ならどうして?」
両手の指を合わせてもじつくカナリアが目線をチラチラと逸らせながら口を尖らせて、学びたい、喉から手が出るほど魅力的な話なんだよぉと目で訴える。
「魔術も魔法も確かに魅力的で、ずっと……憧れていたのは事実です。が、それでも魔法は危険で、この体は私のものじゃなくて過去の本物のカナリアのものだから……行使することが死と紙一重なら、私は私の欲を優先できません」
魔法を間近で見たからこそカナリアは言い切れた。
あれは劇薬だと。




