地表編 5話
キルケの言いかけた唇がそっと塞がる。 何故か、それは本気でカナリアが疑問を口にしていたから。
六年前の夜、アンリユを「おかあさん」と口にしたことをカナリアは忘れている。
言いかけた言葉を殺すなんて、それこそカナリアの言う柄じゃないというやつだ。
「……私の?」
別に言っても問題なんてない。
むしろちょうどいいじゃないか。 どれだけ理不尽に接しても、翌日には立ち直るカナリアの意外な側面が見えるかもしれない。
期待? 好奇心? 歳を取ろうとも醜い思考は健在。それこそカナリアに対しては今更だろう。
恥じらいなど一切ない。着飾る必要もない。
ならあえて伝えてやろう。
ありのままの自分で口角を上げ、意気揚々と改めて口を開く。しかしどうにも喉元で息が詰まり。言葉が上手く出てこない。
「お前さんの……」
「私の?」
言い淀むキルケを優しく見つめるカナリア。
散々多くの人に真実を告げた。見た目を変え、性別を変え、幾度となく歩んだ道の果てで人々と関わり、歴史にすら関与した。
今更。 今更なはずだった。
「まさか、散々な私の人生に二度目の楔ができるなんてな……」
ぐっと堪えて、キルケは目を逸らし、あからさまに見え透いた嘘をつく。
「お前さんの……これから目指すべき天使だ。 アンリユは私と一緒にダエーワ旅団として旅をしていたんだが、いやぁ鈍臭くって無知なカナリアと言動が似ていて、つい姿を重ねてしまうんだよ」
「私が目指すべき、天使?」
キルケは手に持っていた紅茶を一気に飲み干し。どうにか話題を逸らせようと、視線を泳がせてカナリアの提案を掘り返す。
「そういえば! 桜だったか? もう時期だったな、これから見に行くか?」
「え! 本当ですか!! 行きましょう行きましょう!!」
声がワントーンが上がるカナリア。
何かを隠そうとしているキルケに気が付かなかった訳では無いが、カナリアにはさしてその天使に興味がなかった。
それよりも久しぶりのキルケとの散歩。
そっちの方が大切で、カナリアは目を輝かせてウサギのようにその場で小さく跳ねて喜んだ。
愛娘のはしゃいだ様子にほっとする反面。
今、真実を濁して言わなかった言葉のエゴがキルケの心をチクリと刺した。
「気に、ならないのかい?」
「え?なんのことですか?」
振り返ったカナリアはそれ以上は言わなかったが、目の奥が確かに本心を語っていた。
――だってそれ、今の私の記憶じゃないじゃないですか
そう言っている。 淀みきった真っ黒な目。 この判断が正解だったのか分からなくなるキルケは、どうしようもなくやる瀬ない様子で頭を掻きむしった。
「さぁ!早く行きましょう!! さぁ!!」
「はいはい」
成り行きとはいえ基本的に出不精なキルケにとっては家から出ることは面倒以外の何物でもない。
だから明らさまに嫌そうな顔を向けてみるが「言質取りましたから」と輝く瞳で有無を言わさないカナリアの顔に、結局諦めてキルケは玄関の扉を開けた。
「おぉ天気が良好、こりゃ確かに散歩日和だね」
「でしょ? 家の大樹にも若葉が芽吹き始めて、ここ最近は気温も上がってきたんですよ」
舞い込む春風に驚いて咄嗟に陽の光に手をかざすキルケ。
おぼつかない足取りのキルケの隣でカナリアはカーディガンをそっと肩に添えてあげながら、真上を見上げて大樹の木漏れ日に目を細めて春の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
ここ、人食いの樹海グリムには、ぽっかりと穴が開いたようにひらけた空間が存在する。
そこは、かの竜王カウルが魔術師キルケの祝杯を込めて開拓した土地で、大樹を中心として半径五百メートルの円内は四季の移ろいを楽しめるように四分割になっており、それぞれの場所に様々な種類の植物が群生している。
今日はその一角、春の植物が多い桜並木と小さな湖畔を訪れていた。
「出てよかったでしょ?」
「確かに、カナが誘っただけのことはあるね」
「へへ、ですよ。もう…………春なんですから」
語る口数が少なくなるカナリアは、目を眇める。
結局、記憶が戻らないまま今年で迎えた六年目の春。
今のこの生活は心地よく、こんな幸せがずっと続けばと願っている反面。 確かに進む自己形成が、本当の自分を思い出した時に消えてしまうのではないかという不安に比例して胸の奥が苦しくなる。
早く思い出せていたなら……こんな気持ちにもならなかったんだろう。
カナリアにとって歳を重ねることは成長と喜びであり、過去の自分との乖離を意味していた。
故にそれらは時が経てば経つほどに複雑に混じり合った濁流へと変わり、ゆっくりと確実に心を風化させる。
「カナリアは……記憶を戻したいのかい?」
無言で歩き始めた桜道。春風に煽られた髪を押さえてカナリアが哀感を漂わせていると、どこか沈痛な面持ちのキルケが少しだけ大きく息を吐いた。
「……どうでしょう。最初は早く思い出したかったのですが、時が経つにつれて分からなくなってしまいます。私は今の私が好きだけど、きっと過去の私は今の私が嫌いだと思うから……」
「はは、なんでそう思うんだい?」
気散じの散歩だと割り切っているキルケは、重々しい空気にならないよう、わざとらしく笑って問うてみるが、それを真摯に受け止めたカナリアは薄目で立ち止まると、振り返って空の先、天上の彼方を見つめて郷愁を漂わせる。
「それは……なんででしょうか?」
大きく深く削られた自己肯定と存在意義の結果なのか、はたまた本当に過去の自分が、今という何者にも縛られていない幸せを望んでいないのか。
正直なところは分からないが、ただ空を見るとそう思ってならないのだ。
私の幸せは、今じゃないと。
「そんなのあたしに聞いても知らんよ。でも――そうさね。私の考えだが、今を考えてもどうにもならないことは諦めてしまいな」
「へへ、すごい無責任ですね」
いつもの“ためになるのかならないのか分からない”キルケの意見に当惑しつつ、自分の事以外は相変わらず無責任スタイルの言葉に、カナリアは憂き目で微笑んだ。
「そりゃそうさ。すべての可能性には責任はない。あるのは結果さね」
「結果、ですか。それならなおのこと、今について考えることを止めるのは……」
「止めるのは愚策か? それとも短慮か? だったら今という、過去と未来が交差する中間地点の今で、カナは何が変えられるんだい?」
別に他意のないキルケの眼光が、カナリアにはどうしようもなく怖く、急いで並べた言葉の先が息と共に詰まる。
いや! でも! だから!
話を続けた先にある質問責めで、キルケに様々な御託を並べて反発しても、きっとすべての言葉の頭に付いてしまうのは間違いなく言い訳。 理解からくる拒絶と否定。
だけど、この場でキルケの意見を否定することが一番の問題ではない。
本当の問題は、過去を思い出した時に余計な“今”が混じらないように言い訳して、持論を持たず、ただ知識だけを肥大化させている個性のない私。
「――私は――」
自我を許容できないカナリアは、余計な事を口走る前に唇を噛んで噤み、その様子にキルケは少し意地悪な質問をしてしまったと頭を掻いてから溌溂とした声音で言葉を続けた。
「カナ。よく覚えておきな? 考えても答えが出ない時点で、その事象は詰まるところ既に“結果”になっているんだ。……でもね、だからって全ての考えを放棄してしまうのは早計で。さっきも言ったが、可能性に責任はない。が、可能性に対して行う“準備”には大きな責任が伴うものなんだ」
「よく……意味が全く分からないです。可能性に結果があるなら、可能性にも責任があるんじゃないんですか?」
「これが驚くほどに全く無いのさ。可能性に直結してる時点で、それは確定事象だ。仮に落雷によって森に自然火災が発生する可能性を想像してみろ。“燃え広がる”って結果は明白だ。そしてそれは誰のせいでもない」
それを言われると、確かに誰もいない森で起こった可能性には誰にも責任は発生しない。……ただ、それは“誰もいない”というごく限られた条件下での話。
「それは……そうですね。 ただ、それは自然災害だったらの話ですよね」
「あぁ。だからこそ“準備”に責任が伴うんだよ。さっきの仮の話に“村があった”を補足したら、それは可能性を考慮せず対策を怠った領主の責任になるんだ。――なぜ森に囲まれた村で火災が起こることを想定していなかった? 防火訓練や避難場所の設置、火災の可能性は確かにあったんだぞ! ってね」
「確かに……もし災害を可能性として理解できていたなら領主に責任が生まれる。 しかし、その可能性に気がつかなかった場合も十分にあり得ますし、それで責めるのは理不尽ではないのでしょうか?」
「はは、それを理不尽っていうなら、世界に領主や村長は必要ないから、農作業を手伝わなきゃだな」
純粋な質問をした後、哄笑したキルケを見て、カナリアは“領主”という存在が管理者であり責任者だという事を思い出し、自身の愚問に恥を感じる。
詰まるところ“責任”の意味が可能性への準備を指しているなら、準備をするための可能性に気が付かなくてはならないのもまた、責任者の仕事なのだ。
キルケは、珍しく恥じているカナリアを優しく見つめてから、笑いを堪えて話を戻す。




