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地表編 2話


 瞼を強く瞑る。 世界から情報をシャットアウトする。


 すると時間が少しづつ身体の強ばりを解いて、動かなかった関節に感覚が戻った。


 動ける。 そう思ったと同時に、空から突き落とされた衝撃が今更ながらに全身の神経を駆け巡った。


 カナリアは声にもならない悲鳴を上げながらカーペットの上を横転し四つん這いで唸る。


 もう死ぬかもしれない――もう、死にたい。


 唾液を呑んで喉を鳴らすと、手のひらから伝わる床のひんやりと冷たい温度が妙に心地よく。


 自暴自棄な頭を押し当てて深く息を吸い込む。


「痛い、痛いよぉ」


 ベッドから共に落ちてきた毛布に指を伸ばして包まり、澄んだ空気の味を噛み締めながらカナリアは涙を溢す。


 刻は深夜。何もかもが黒色に塗りつぶされた世界は、まるでカナリアの心情を投影したかの如く、一縷の月光さえ暗雲の中へと遮られる。


 人の気配はいまだ感じない。 小屋の中は、依然として多くが認識できない狭い世界。


 ふと、冷え切った部屋の中でふわふわと優しく揺れる暖炉の炎が視界に入った。


「綺麗……」


 何となく、私は堕とされる前。


 朝日に手を伸ばせなかった後悔を上塗りするように暖炉の光へと手を伸ばしていた。


 指先が暖かかった。


 身体が熱を求めていた。


 だから、もっと、もっとと爪の先が焦げ臭くなろうと手を伸ばし続けた。


 生きていると爛れる肌が肯定してくれた。


 揺らめく赤い光が、私を本当の意味で助けてくれる。


 そんな気がした。


 今にも消えそうな薪から火の粉がバチンッと、カナリアを拒絶するかのように夜闇に弾ける。


 カナリアは目を奪われた。 儚き灯火であろうとも、それが黒の世界に漫然と煌めく星に見えた。


 伸ばせば届く距離なのに触れられない。 やっぱりあと少しが″届かない″。


「そうか。はは。私、もう疲れたんだ。だからもう……」


 震えていた口元が緩む。


 霞んだ瞳に光が灯る。肩で息をして思考が止まる。自分が誰なのかは思い出せないが、それでいいと思えた。


 もう――諦めてしまおう。


 “死”と悟ったこの身体は、確かに意思を持って灯る暖炉の熱を求めたその時。


 先ほどまで全く存在を感じなかった部屋の中に、突然見知らぬ老婆の声が響き渡る。


「お前さんは知ってるかい? 天上の輪廻には綺麗な魂しか戻ることができず、大罪を犯した魂は地の牢獄へ囚われて延々の苦痛に焼かれる。よくある迷信さね」


 部屋のどこから話しかけているのか分からずに辺りを見渡すが、やはり人の気配は感じない。


「あの――」


「それにしても、感謝もしないで真っ先に火に飛び込もうなんて、相変わらず天使ってのは自分の命が軽いのかねぇ」


 わざとらしく会話を被されたカナリアは、不服そうに暗い世界の一点を睨みつける。


「……貴方は誰ですか? もしかしてあなたが私を助けてくれたの?」


「あぁ、そうだ。 私が、お前を、助けてやった。 だからなんだい? 死にたかったとでも文句でも言うのかい?」


「はい。 やっと――楽に、なれると思ったのに……」


 くしゃっと笑ったカナリアに老婆は何も返さなかった。


 数分間の沈黙。


 カナリアの頭上に何かが触れると途端、顔面から勢いよく踏みつけられるような圧がかかりうつ伏せで身動きが取れなくなる。

 

「あたしゃキルケだよ。巷では天使殺しのキルケ、なんて呼ばれてる。 その軽い命、すぐに奪ってやることすらできるが、お前を助けたのは一重に聞きたいことがあったからさね」


「聞きたい……こと?」


 頭が動かない。 姿は見えないが、なんとなく老婆が私の頭の上に足を置いてい踏みつぶそうとしている気がした。


 真上から感じる薄気味悪く吟味されている視線。 私の嫌いな目だ。


 少しでも私が抵抗すれば、老婆は私の頭を踏み潰してためらいなく殺すだろう。


 少し、迷った。 記憶がない私としてはいっそ、すぐにでも殺して欲しい。 願ってもない状況。


――だけど、私を助けた老婆の気持ちは、どうなるんだろう。


 一抹の疑問。 どうでもいい配慮のせいで死んだ後の後味の悪さを感じる気がした。


 だからカナリアは無駄な抵抗を敢えてせず、全身から力を抜いた。


 別に生きたいからじゃない。せめて助けてくれた恩には報いたいと思ったからだ。


「まさか天使がまた私の前に現れる日が来るなんて、夢にも思わなかったよ。――それでお前さんの目的はなんだい? まさかその顔で私に近づき、油断させて殺すことかい?」


 棘のある言い回しだけど、老婆の声が何処か悲しそうにも感じ取れて、カナリアも不思議と悲しい気持ちになった。


「天使って? 私の名前はカナリアって言うらしい。貴方を殺すとかはちょっと分かんない、でも私が迷惑をかけたのなら謝る。ごめんなさい」


「ごめんなさい? 天使のあんたが?」


「違うの?」


 カナリアの返答が想定外だったのか、キルケは目を丸くして狼狽えた。


 罪を理解して謝るなんて、老婆の知り得る天使の言動に該当しなかった。


――油断を、誘われている?


 キルケは、なおも無知を演じていると天使の少女に警戒を強めるが、奇しくも、事実としてカナリアはこれ以上の情報を持ち合わせていなかった。


 何度目かの質問、「分からない」「ごめんなさい」とまともに会話が通じぬカナリア。 遂にキルケは眉間を摘む。


「いや、え、あぁ、聞き方が悪かったよ。わたしゃアンタら天上の生き物を殺しすぎたから、てっきりその刺客かと」


 間の抜けた声で少し唸ったキルケは、改めて自身の質問を噛み砕いて説明するが、やはりカナリアには理解の及ばない疑問ばかり。


「天上? それが私の住んでいた場所で、キルケ曰く、そこに生きる物が天使?」


「あ、あぁ。本当に、何も知らないんだね」


 押し付けられていた頭の圧力がなくなり、カナリアは残念そうに肩を落とす。


「ごめんなさい。私、私が誰かも、どこから来たのかも分からないの」


 どこか柔和な姿勢になる老婆に、カナリアは心から申し訳なくなり、首を振って謝罪した。


「記憶がないってことかい?……てことは堕天か?」


「今の私にある記憶は、背中を蹴飛ばされて落とされたことだけで、そのまま堕ちて、気がついたらここにいたの」


「姿がアンリユと似ているとは思ったが……まさか出会った時のアンリユと全く同じ状況だったなんて……こんなことがあるのか?」


 驚きを隠せない様子で額に手を当てた老婆が「アンリユ」という言葉を口にすると、カナリアは動かせずにいた身体でよろめきながら立ち、見えないはずの老婆に視線を向ける。


 アンリユ――それは知らないはずの言葉。なのに、不思議と愛おしさが胸に溢れてくる言葉。


 無表情で涙を流す少女は、「お母さん……」そう一言呟いて、まぶたを閉じる。


 認識阻害の魔法を使い、徹底的に気配を隠蔽していたにも関わらず、確かにカナリアは老婆の目を見てそう呟いた。


 賢者とすら呼ばれた老婆は久方ぶりの恐怖を感じ、すかさず攻撃魔術を展開しようと態勢を整えるが、全ては杞憂に終わる。


「気を失って……いるのかい?」


 立ち尽くしているカナリアは、指先すら微動だにせず、涙を流したまま気を失っていた。


 今にも倒れてしまいそうな天使に寄り添い、急いで抱き抱える老婆。


 やむなしに魔術を解いてその姿を月光の元に曝け出す。


「……はぁ、まさかこの人生で二度も堕天使と出会うなんて……何が起こるか分からないもんだねぇ。しかもどっちも訳ありときたもんだ。本当にとんだ災難だよ」


 月光に照らされてきらりと光る透き通るような緑の瞳。


 日の落ちた部屋の中に、窓から入ってきた澄んだ空気が老婆の美しい空色の長髪を靡かせた。


 神の悪戯か、天使の罠か、はたまた悪魔の温情か……。


全てを失ったカナリアを拾ったのは、皮肉にもこの地表において歴史上最も天使を葬ったとされる“天使殺しの大賢者”キルケだった。


 こうして数奇な運命によって導かれ、翻弄された天使と天使殺しの生活が幕を開けた。


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