地表編1話
堕天して、六時間ほどが経っただろうか。
一向に瞼を開こうとしないカナリアに、弾ける薪が乾いた音を立てて「早く起きろ」と急かし立てた。
パチ、パチと空気が弾ければ、それが夢の中のカナリアには喜んで手を叩く拍手に聞こえた。
『頑張れ頑張れ! お姉ちゃんが待ってるぞ!!』
後ろでずっと聞こえた拍手と笑い声。
『――綺麗』
広がる星々の絨毯が視界に飛び込んで、それが不思議と綺麗で、儚くって、私、生きてるんだなぁって思って。
だけどそんな綺麗な時間も、すぐに向こう側から姿を表した暖かな光に遠慮して、青い空の中に姿を潜めてしまった。
あぁ、もう。見えなくなっちゃった。
恋焦がれるように腕を伸ばそうにも、両手首が何かで締め付けられて動かせない。
無力に流れる時間の中で、綺麗を望むのは私にはすぎた願いなのだと思えて悲しくなった。
『私――なんでここに居るんだろう』
地面に着いた膝がひんやりと体温を奪う。
頭は悩み事もなくスッキリとして清々しい気持ちなのに、奥歯がずっと震えていた。
暖かい陽の光が眩しくって目を細めていると、後ろから誰かが私を「お姉ちゃん」と呼んでいた。
『お姉ちゃん、ごめんなさい』
反射的に振り返った視界に、血だらけの少年が映り込む。
彼は泣いていた。
忘れちゃいけない――君はきっと、私にとって何よりも大切な……誰か。
「帰らない、と」
止めていた息を吐き出すように出た言葉。 穏やかに眠っていたカナリアの瞼が瞬間的に開く。
ぼやけた視界の焦点がゆっくりと重なる。見慣れない部屋の天井。 少しカビ臭い匂いが鼻につく。
カナリアは何も思い出せないのに、なんとなく、ここが自分の家ではないと感じた。
「かえ……る。 どこ、に? 私、だれ? あ。カナリアだ。 マリアがカナリアって言ってた、個体名」
上体を起こし、額に手を当てながらマリアと名乗った女性が教えてくれた個体名をなんとなく口にする。
――カナリア。カナリア。カナリア。
それがなんなのか、何を意味しているのか、そんな事はどうでもよかった。
ただカナリアという名前が、何か意味のある大切な物のような気がして、何度も、噛み締めるように呟いた。
カナリア。 今、声が震えてるのが分かった。
カナリア。 わけも分からず目から涙が溢れ出した。
両手に力が入らないから汚い顔すら拭えずに、情けなさから嗚咽を混じらせて。
それでも言い続けた。
私はカナリアだ、と。
ただ、それだけしか私には分からなかったから。
それだけが私の生きる取り柄のような気がしたから。
自分の家がどこにあって、どんな家族だったのか、何も、思い出せないから。
思い出せない事が私にとって、心が潰れるほど苦しかったから、泣くしか出来なかった。
指ひとつ動かない。 呼吸をする度に肺が痛い。 涙すら拭えないそんな自分が、どうしようもなく惨めだと思えた。
泣いて、泣き疲れて、なにも思い出してなどいないのに、少しだけ心が楽になれた。
カナリアの声が落ち着くと途端に静まった部屋の中。
瞼を閉じて再度眠りにつこうとした時、ふと暖炉の炎が視界に入って、胸の奥から何かが込み上げてきた。
「いか、なきゃ。 あの子が、泣いてるから」
知らない衝動が突然、この死に体の背中を突き動かす。
少しの動作で全身に激痛が駆け回る。 脳がこれ以上動くなと警鐘を頭に響かせる。
それでもカナリアは自分の意思とは関係なく、身体を起こして床に足をつける。
ただ一重に、心臓から込み上げてくる焦燥感に従うままに。
重心が足に乗る。途端に骨が抜かれたように勢いよく床に転げ落ちて、鼻から血液が垂れる。
「痛い、痛いんだ。 わたし」
横になったまま動けずにいると、目の前にある鬱血した自分の左手首が目に入り、見たくないから右手の親指で隠すように触れてみた。
意味なんてない。 ただそうすれば、非力で侘しい自分から目を反らせる気がしたからそうしてみただけ。
暗闇の中。カナリアは身体を小さくして、肺の中の空気を吐き出すように独り呟く。
「思い出せ、ないよ。 助けてよ」
不意に出た言葉の意味は分からない。
だけど、きっと私はこの胸の焦燥感に、弱い今の私を許して欲しかったんだと思う。
私の中にいる私じゃない誰か。 折り畳まれて小さく重なった心。
きっとそれが″カナリア″という私。
そしてそいつが今、動けない私に言ってるんだ。
お前は――誰だ? なんのために、いきてるの?と。
全く身に覚えのない知らない言葉が衝動となって″動け″、″動け″と痛覚を無視して求めてくる。
怖いの。 痛いの。
「なんで……なんで何も、何も分からないの? 私、わたし、わたちは――『誰?』」
膝を抱えて現実逃避を図っても、心臓の音が鼓膜の内側から主張して、ずっと後ろ指をさしてくる。
許して、頑張った、私、何も知らないの。
どれだけ赦しを願っても、鼓動は容赦なく煽り立て、呼吸すらもまともにさせてくれない。
「私、なんであそこに戻ろうとしてるの? あの少年とマリアって人のため? 分からない、思い出してよ……」
知識だけ残されたところで意味なんて無い。マリアと少年を思い出してもこの心はちっとも暖かくなんてならない。
経験がなければ、私にとって″カナリア″はどこまで行っても他人事。
だから私は今も身を縮め、頭を抱え、声にもならない助けてを、世界に伝える。
帰る理由も、心を締め付ける胸の痛みも、分かりたくても分からない。 だったらいっそ、何も分かりたくない。
「怖い……誰か助けてよ……」




