地表編 開幕
地表の中でも突出して緑が濃く。文明の気配すら感じられない樹海に、突如として響く轟音。
鼓膜に残る甲高い残響が周囲一帯の生物の聴覚を刺激し、瞬く間に恐怖が伝播する。
虫や鳥、野獣に草木。 空に聳えた入道雲すら、なにかに怯えて遠くへと流れていく。
星の異変。 その例に漏れることなく森に住まう偏屈な老婆の知覚もまた刺激された。
老婆の機嫌がすこぶる悪くなる。
「はぁ――ったく。 この土地に手を出すことの意味が分かってるのか……」
気だるそうにローブを羽織る老婆。
大木の内部、部屋の扉を開けると空を飛ぶ階段が老婆の元へとゆっくりと近寄り玄関へと誘導を始める。
「ったく、迷惑なこったい」
爆音による衝撃波で床に散乱した無数の書物、老婆は口を尖らせて握った杖の先を地面に数回当てる。
カタカタと動く本の隙間から現れる色とりどりの切り絵のような小人が一生懸命に姿を表して、本を棚へと戻す。
降りる階段。 舞い上がる書籍。
天井から一階にかけて貼られた巨大な窓に映るのは空を覆う程の鳥の群衆。
さざめく森林は獣が一斉に野を駆け大地を揺らした証。
老婆が足を止めて睨みつけるのは空で動きを止めている天空都市、アスタリア。
天気は――晴れ、時々曇り。
「何か――嫌な予感がするねぇ」
天候が管理されている地表に起きた異変。 玄関を開くと何故か雨の匂いが鼻の奥で燻った。
爆心地の正確な位置は分からない。
だが、魔法の残滓。魔素なら辿れる。
「ふむ。この辺りか?」
直径十メートル以上の木々の隙間を跳躍し、魔法痕の濃い地点で立ち止まる。
深く被った尖り帽子の鍔から青い瞳を覗かせた老婆が目を細めて瞼をゆっくりと閉じる。
認識できるのは数時間以上が経過した薄い魔素。 それなのに老婆には何故か捕捉ができた。
理由はおそらく既視感。
「まさか――ね?」
ため息混じりに肩を落とす刹那。
突如として暗転する世界。
晴れた空が豪雨へと顔色を変え、天空都市の更に空から鳴り響く、酷く大きな青と白の稲妻。
目を奪われた矢先、空気が揺れて暴風が天空都市と地表の狭間で巻き上がる。
頭上を羽ばたき去って行くのは旧知の友にして、時代を創った巨大な竜神の影。
「いったい……何が起きてるんだい? カウル……」
老婆は本来あり得ない雨に帽子を濡らして、目を細めながら臨戦態勢で雷鳴により半壊状態の天空都市を見上げる。
「まさか……あんたがその姿になるってことは、もう。 時間がないんだね」
もの言えぬ表情で老婆は唇を噛み締め、この場でのカウルとの再会を諦めて爆心地へと急ぐ。
魔術の行使、突き抜けた樹海の上空。
老婆の数百メートル向こうで遥か彼方へと向かう竜の背中が大陸間を移動する天変地異。
ここは天使たちが蔑称する地表。
神格人種の住まう世界。
浮遊する大地の中で原種である”人”の特性を最も残した種族が生を営み、謳歌する漂う地表の一片。
その中でも特段緑が濃く。
地面から生えた蔦は木々の高所まで絡み付き、それらが数百キロもの範囲で厚い緑の層を形成した樹海の轟音を起点として、世界に事件は起きた。
「ったく。人間の戦争か? それとも神と天使の諍いか?どちらにせよ、余生ぐらいは穏便に過ごさせて欲しかったんだけどねぇ」
呆れた様子で老婆は空から下降をしながら、左手の親指と人差し指で輪っかを作り、内側をレンズのように覗き込む。
確かに震源地の近くまで来ていた。
その筈なのに、さっきまで知覚できていた魔素が全くもって見当たらない。
「確かにわたしゃ、魔素を辿ってここまで来たんだがねぇ? これはいったいどういうこったい?」
まさかアンリユの眠る墓穴に来ちまったのか?
いくら周囲を見渡せど、樹海には大きな爆撃跡すら残っていなく、老婆の脳裏に一抹の不安が過ぎる。
「いや、それはない。 墓穴は東、ここじゃない。 はは、いつまで過去を引き摺ってんだか」
老婆はとんがり帽子の先に人差し指を当てて、空の上で苦笑いをした。
人による魔術兵器なら、クレーターが出来ていてもおかしくないのにそれらしき後はどこにも無い。
轟音と衝撃波は確かにあった。 魔素を追いかけて凡その爆心地は合っているはず。
それなのに空から見た樹海の景色、周囲数キロ異変はなし。
「だとしたら、魔術じゃない?」
老婆は立ち止まって肘を伸ばし、両手を広げて目を閉じる。
「大気の魔力濃度に乱れはなし。戦争の類じゃない、のか?」
余計に深まる謎。
肩を落として更に観察を続けていると、四キロメートル離れた樹海の天井に張られた蔦が不自然に窪んでいる事に老婆は気がついた。
「あれはまさか……」
急ぐように持っていた杖で靴を軽く叩く。
両足を揃えてから魔法陣を発動させ、あっという間に森を騒がせた元凶へと辿り着く。
「はは……こんな偶然があるのか……」
老婆は乾いた笑いで頬を引き攣らせた。
――生涯なんて生ぬるい。
輪廻すら超越し、幾度となく姿形を変えて生まれ変わり天使を殺すことにありとあらゆる時間を費やした。
老婆にとって天使を殺すことだけが生きがいだった。
そうして、ついに今生にて目的は果たされた。
故に老婆にとってこの肉体こそが最後の輪廻転生。
死を受け入れ、旅立ちを前にした老婆の生涯最後の出会い。 それは皮肉にも、白く美しい翼を携えた幼さの残る天使の少女だった。
目を奪われるほどに綺麗で、文句の言いようがないほどに整った端整のある顔。
「殺すか?」
老婆は躊躇うことなく、眠る天使の首に手を伸ばす。
――触れた指先、吸いつくように離さない潤った天使の肌が気色悪い。
こんな皺だらけの指が触れてもなお、反応をしない天使の朗らかな表情がまるで諦めにすら見えて頬が引き攣る。
きっと天使は私に殺される事を望んでいる。
――早く殺してほしいと願っている。
だから無防備に寝てられる。
だから手足が紐で結ばれている。
ならば、遠慮は必要ない。
そう自分に言い聞かせて親指を天使の喉に添わせた老婆は無抵抗な天使をそのまま覚めない眠りへと誘おうとした。
それなのに。
少女の髪の毛が微風に揺れて、その顔が視界に入る。 指の力が抜けていく。 理由はなんとなく。
「似ている」
だから、私は殺すことを躊躇ってしまった。
天使という生き物が吐き気を催すほどの邪悪さを孕んだ化け物だと老婆は知っていた。
故に憎悪すら抱いていた。許せるはずがなかった。
殺すことは――老婆にとって必然だった。
それなのに。
指先は以上を拒絶した。
過去。たった一人、天使の概念を書き換えた堕天使と老婆は出会ったことがあった。
「なんで似ている、なんでさ――アンリユ」
ただの気まぐれだった。 偶然気が乗らなかったから、老婆は魔法で天使を宙に浮かせて自宅に連れて帰った。
堕天編の投稿から、およそ1ヶ月。
大変長らくお待たせ致しました。
当初は堕天編のみを新人賞へ応募する予定でしたが、応募規定の都合上、今回投稿する地表編も含めて「1巻」として応募する形に変更しました。
そのため、地表編の投稿が完了次第、一旦更新は停止となります。
もしファンタジア大賞で選考落ちとなった場合でも、コメントや感想など反応を頂ければ、早ければ年内に続編を投稿する可能性もあります。
ではエンリセ、第2部地表編をお楽しみ下さい。
今井冬馬




