30話
「貴様らぁああああああ」
走った。
走っていた。 喉が裂けるほど叫び。 目から血が流れるほどに睨みつけ、インバードはひたすらに走った。
周囲の天使を殴り飛ばし、すべてを振り払い、急いで姉へと腕を伸ばす。
――が、残酷かな。
真後ろに立った天使から振り下ろされた鈍器がインバードの頭部に直撃する。
インバードの意識は暗闇へと落ちてゆく。
「おね……ちゃん……ごめん……」
謝罪と共に溢れた涙が痛みで上書きされる。
伸ばした手の先は指先すらも掠らない。
力を隠して、無邪気を装って、当たり前を望んだだけの十三歳の少年には、その光景は余りにも耐え難いものだった。
「ごめん、ね。 イン、バード」
歪なナイフが突然発光する。
カナリアが“カナリア”だった――決して失ってはいけない想いの断片が、彼女の中から“また”消えていく。
嗚呼、やっと思い出せたのに……でも、間に合ってよかった。■■バ■ド、私の大切で唯一の――。
底の見えない暗黒に吸い込まれる記憶。
今じゃ殆ど思い出せないけれど、なんとなく。ただぼんやりと覚えている。
遠のいて、泡沫のように弾ける大切でかけがえのない少年との思い出。
『おね……ちゃん……ごめん……』
彼がなぜあれほど悲しんでいて、彼を助けた私がなぜあれほどまでに安堵していたのか。もう、確かだったすべてを思い出すことはできないけれど。
――私は、少年に“逃げてほしかった”のだ。
大切だった青いメッシュの入った少年を突き飛ばして、そう思えたことは間違いないのだ。
*
「おはよう、カナリア」
麻袋を頭に被せられてから数時間。全身を拘束されたまま“死ぬように”眠っていたカナリアの鼓膜に優しい声音が響き、カナリアは意識を覚ます。
「貴方は……誰? カナリアって誰?」
そう尋ねると、優しい声の主はカナリアの頭に付けられた麻袋を外して顔の腫れたカナリアの視界に姿を現した。
目を奪われるほどに綺麗なブロンズ色の髪と、霞むことのないうっとりとした黄色の瞳が印象的な少女がそこにいて、カナリアは言葉を失う。
見惚れている“記憶を失った”カナリアに、少女はそっと手を伸ばし、カナリアが好きだと言ってくれた“あの”微笑みで涙を浮かべる。
「私は……私はマリアよ」
「マリ……ア? そう、素敵な名前なのね」
「……そして、カナリアは貴方の名前。貴方が貴方を思い出すまで、これからずっと大切にしないといけない個体名――それが、カナリア」
淡々と、濁り切った目を向けるマリアに、自分を失ったカナリアは何がどうなっているのか分からず、ただ何となく心に残った感情だけで返答する。
「カナ……リア? そう、教えてくれてありがとう、マリア」
殴られ、顔が腫れていることすら気づけないカナリアは無邪気に笑う。
何が起こっているのか、なぜ今自分が魂の見える大広間に座らされているのか――カナリアは知らない。
「ここは、とても綺麗な場所ですね。 私、この空に浮かぶキラキラした色、好きだなぁ」
嬉しそうにカナリアは空を見る。
「――」
「マリア?」
「――気にしないで……それで、本題なんだけどね」
マリアは今にも泣きそうな顔で歯ぎしりを立て、周りに人がいないことを確認すると、カナリアの手に“あるもの”を渡した。
「これは?」
「これは記憶格納刃。 記憶を司るナイフで、貴方がこれから肌身離さず持っていないといけない物よ」
「ストレージナイフ?」
頭に疑問符を浮かべるカナリアなどお構いなしに、マリアは皮のケースを急いでカナリアの腰に装着させる。
「いい? カナリアは、これから目の前にある門から地表と呼ばれる世界に落とされるの。そこで新しい生活をして、色々な体験をして……それで……あ、アンリユ……と、一緒に」
「マリア?」
そこまで言うと、マリアは勢いよくカナリアに抱きつき、大声でむせび泣いた。
いやだよぉ……もう離れたくないよ。
声が枯れるまで「ごめんなさい」と繰り返し叫び泣くマリア。その真意は、決してカナリアには伝わらない。
「カナリア。次会った時は、貴方に私は酷いことをする。だからその時は、躊躇わないで私を殺して……」
泣き終えたマリアは顔をくしゃくしゃの笑顔でそう言い残すと、どこか名残惜しそうにそっと後ろに下がり、階段の先から現れた傷だらけの男の元へ向かう。
「マリア。カナリアの記憶は消したか?」
「ええ、イデルバ」
「くは、そうか。さすがは俺の妻。お前も酷い女だ」
「イデルバ。私は絶対に貴方を許さないから」
睨みつけるマリアに、満身創痍のイデルバは気分良さそうに口角を上げる。
「そう言って、カナリアの心臓に二度もナイフを突き立てたのだから世話ないな。おや?その首の傷――また自殺を試みたのかい?」
すべてを仕組んだと暴露するイデルバの発言。
マリアは躊躇うことなく拳を振り上げて襲いかかろうとするが、同時にぴたりと動きを止め、その場にへたり込む。
「分かっているだろ? 元々“地表の民”だったお前は、私には逆らえない。悪いが、今はメルフィと贖罪の騎士の連戦で疲れているんだ」
「ふざけ、るな。 ふざけるな!! 色彩戦争で柱となった魔女の皆に同じことを言えるの!? 昔の貴方は……どこに行ってしまったの」
「――煩い」
唇を噛みちぎり、なんとか立ち上がろうとするマリアの悲痛な声に、イデルバは一瞬だけ瞳孔を広げると後方にいた天使に合図を送ってそのまま拘束させた。
「イデルバ!! これは一体、何の真似!!」
「おいおい。仮にも私の妻としての自覚を持ってくれよ。君がキーキー喚き散らかすと、私の評判も落ちてしまうんだから、さ!!」
両腕を後ろに回されたマリアは抵抗も虚しく地面に押さえつけられ、毅然とした態度のイデルバに頭を踏みつけられる。
「まさか、インバードに何かしたんじゃ!? それだけは絶対にしないって約束でしょ!!」
「酷いなぁ。私“には”良し悪しの分別ぐらいはつくさ。ただ少しうるさかったから、みんなにお願いしたんだ。 静かになるように教育してくれってね」
「静かに?……何を言って――」
嘲笑したイデルバは指を鳴らし、天使に指示を出す。
ケラケラと満面の笑みを浮かべて現れる天使。そいつらが引きずる、真っ赤に染まった麻袋。
「嘘……なんで……」
粗雑に前へ投げ捨てられた麻袋は、地面に当たった衝撃で紐が緩んで解けた。
「なんで? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで? 約束が違う。私はカナリアと約束したから、イデルバと約束したから、約束……したのに」
声を震わせるマリア。
目の前の麻袋から出てきたのは、手足を拘束された状態で転がり出て来たのは血だらけのインバードだった。
「? 約束は守るさ、だからカナリアだけ処分するんだろ?」
「インバードに!!手を出す必要はなかったじゃない!!」
「はぁ。 あのな?神と天使の混血なんぞ都合の悪い姉弟、本当なら即刻処刑もんだ。 それをわざわざ姉はここで殺して、弟は俺が利用してやると言ってるんだ。 ちゃんとマリア、お前の意思を俺は配慮してやってるんですよ?わざわざ」
「殺、す? 堕天させるだけの――約束だったじゃない」
イデルバは優しく微笑んで、彼女の美しいブロンズの長髪を拾い撫でて深くマリアの匂いを嗅ぐ。
「あぁ――殺す。 アンリユの封印、こいつら姉弟の覚醒。 この星において、前例のない特異点が最も危険だと”俺たち”は知って、いる」
「確かにインバードは神ヴェルゼナとおなじ目をしていたと報告は受けました……でも! だったら!殺すくらいならカナリアから記憶を奪う必要なんてなかったじゃない!! なんでそんなこと――」
涙で訴えるマリアに高笑いするイデルバは、深呼吸してから姉弟を見下ろした。
「その方が――楽しいだろ?」




