29話
両手を広げる少女の優しい笑顔に、カナリアが真っ先に反応する。
「マ、い、ア?」
「え?――マリア? あの人がお姉ちゃんがよく話していたマリアさん? なの?」
チカチカとする視界の中、聞き覚えのある声にカナリアは手を伸ばす。
カナリアは覚えていた。
彼女の微笑みを、彼女の目を、鼻を、口を、髪を、手を、指を、温度を“言葉”を全て。
たとえ今、自分自身が誰なのか、本当に今が現実なのか、何もわからなくなっていようともカナリアにとってマリアだけが信じられる人だったから。
まともに意思疎通ができない姉の状況に焦るインバード。
まともでありながらも判断が鈍るインバードとは対照的に、異常をきたしていながらも姉であるカナリアだけが冷静だった。
「だ、め」
カナリアの中でマリアと初めて出会った過去の記憶が、今のマリアの表情とぴたりと一致する。
同時に激しい悪寒がカナリアに襲い掛かった。
確か、あの時も――そうだった。
あの時も、こう言った。
『「ごめんね。愛してるわ」』
重なり合う過去と現在。忘れてしまった幼き日の記憶。
完全に同じ顔で同じ言葉を放つマリアが、何を目論んでいるのかは今のカナリアには分からない。
しかし、カナリアは直感した。
マリアが――意図的にその言葉を選んでいるのだと。
心の奥深くに閉ざされていた記憶の扉が解錠される。
流れ込んでくる過去と罪。カナリアを襲う膨れ上がった追憶は、心臓を酷く膨張させ、破裂寸前まで追い込む。
「あ、あぁ、ああああぁあぁ」
奪われていた真実への邂逅。
それによる、悲鳴によく似た突然の慟哭。
罪を自覚したカナリアが“完全な天使”としての覚醒を果たすと同時に、今まで閉じ込めていた過去の罪悪感と憎悪が津波のように押し寄せる。
八年前。メルフィと離れ、イデルバ夫婦に引き取られた過去の記憶。
『お願い、おとうとだけは殺さないで。おとうとだけは……メルフィのところに戻してあげてください……おとうとだけには手を出さないで!!』
――また戻ってしまった地獄のような暮らし。
幼いカナリアの縋りつく姿に表情一つ変えず、何のためらいもなくイデルバは幼い少女の頬を打った。
『うるさいですよ?』
きっとまた母親に会える。きっとまた父親と四人で幸せな生活を過ごせる。
私はそうメルフィが言ったから信じていた――でも、そんなものは無意味だった。
メルフィに助けられて一緒に過ごした二年間。
短いと言われればそうかもしれない。
だけど幼い私にとって“無償の愛”を与えてくれたメルフィの存在は幸せそのもので。
また周りを信用しようと――本当に、思ってたんだ。
なのに。
必死に弟だけは助けようと、自分を殴った男の足に縋りつき嘆願するカナリア。
それが男には目障りだったのだろう。
カナリアは口角をひん曲げた男に勢いよく腹部を蹴られ、そのまま壁に強打して肺が詰まる。
『――』
息が、できない。
『アンリユも面倒な物を残したな。神の子を身籠るなど、完全な誤算だ』
『お願い!! これ以上、この子たちをいじめないで!!」
『虐めだなんて――違うだろ? 躾、だ』
『お願い、イデルバ!! お願いします!! どうか、アンリユの子どもに、私の家族にこれ以上……』
『――ッツ』
背の低いブロンズ髪の女が涙ながらに男に訴えるが、男は女の髪を容赦なく強引に引っ張り上げ、当たり前のように彼女の頬も引っ叩いた。
『うるさいですねぇ!? お前が!!元・神格人種である貴方が私に指図ですか!? えぇ!? いいですか、マリア。あなたは!! ただ私に!!見染められただけの愛玩具。いつも通り、私の指示に従いなさい!!』
腹部に走る激痛に涙を流したカナリア、八歳の記憶。
頬を殴られて同じように涙を流す女を、男はすぐに我に返ると女を優しく抱擁してその手にナイフを握らせる。
『さぁ、おやりなさい。 このナイフで記憶を切り取るのです』
両手をカタカタと震わせながら「もういやだ」としきりに喚く女。
定まらない瞳孔で女はカナリアの前に立ち涙を流す。
『こんなのが天使なの? こんなのが、私が憧れた天界の姿なの?』
『――さぁ』
『死にたくても死ねない。 腹を痛めて産んだ我が子すら捨てさせられる。こんなの……ただの奴隷じゃない』
『さぁ!!』
明らかに異常をきたしている女は、酷く歪んだ表情で私の胸目掛けて、その歪なナイフを振り上げる。
『けほ、マいア?』
『ごめんね。愛しているわ』
ぽたり、ぽたりと刃を伝って真っ赤な血液が滴り落ちた。
痛くって、苦しくって。
――わたしはただ……本当の家に帰れると、信じたの……それなのに……
体が急に熱くなると真っ赤な紅も涙と同じくらい口から溢れ出して、自分がどうなるのか瞬時に理解した。
そうか。これが“死”なのか。
――私、死ぬんだ。
死ぬのは、怖い。
――でも、それ以上に、隣の部屋で眠っているインバードがひどい目に遭うほうがもっと怖い。
カナリアは満身創痍の身体でマリアに縋りつき、別室で眠っている弟に危害を加えないよう、再度懇願した。
『インバードだけは、ね。 いい子だから助けてね。くだちゃい』
『違うの……私……ごめんなさい……ごめんなさい。逆らえないの、抗えないの、理解できないの。私は、こうすることが幸せなのだから』
――なんで今まで忘れていたんだろう。
そうだ。私はナイフで刺されてから廃楽園での記憶を失い、イデルバとマリアに八年間育てられたんだ。
意識が目覚める。 青葉のにおいが鼻につく。
これは現実。 なら、目の前でマリアが持っている、あの異形のナイフは?
――もしかして――
また記憶を消される?
家の前で待っているマリアの表情が、八年前に私の心臓にナイフを刺した表情と一緒だった。
なら、今彼女の言った「愛してる」の意味は、きっと。
一人で立つこともままならないカナリアだが、それでもマリアから弟を助けるために最後の力を振り絞って、インバードを突き飛ばす。
「インバード……神殿に逃げなさい!! 早く!!」
「え!! おねーちゃ……ん?」
初めて姉から受けた乱暴にインバードは体勢を崩して押し倒される。
「な、なんで、僕を突き飛ば――」
理解する間もなく、なされるがままに茂みの中へと転がるインバードの震える声。
それでもカナリアは唇を噛みちぎって語気を強める。
「早く行け!!!!」
姉が初めて見せる鋭い目つきと暴言。
これが非常事態であることは一目瞭然で、姉が自分を生かそうとしていることを本能的に察したインバードは、泣きながらただ無心で森の奥深くへ走り出した。
弟の背中が徐々に遠のいていくと、カナリアの本音がほろりとこぼれ落ちる。
「ごめんね……インバード……お願い。逃げて。逃げて神殿に向かうの……きっとお父さんが助けてくれるから」
目が見えないインバード故の弊害。 小さくも確かに聞こえてしまった、カナリアの優しい声音。
普段と変わらないカナリアの声だった。
だからインバードは反射的に後ろを振り返り、偽っていた瞼を上げて目を見開く。
「おねーちゃん!!」
初めてインバードは姉と目が合った。
姉は笑っていた。
優しい目元。 胸を貫通したナイフ。
鮮血を口から流して、それでもカナリアはインバードに、弟に屈託のない微笑みを浮かべていた。
倒れるカナリアの肉体。
そのままマリアの背後に隠れていた天使がむき出しの欲望に頬を引き攣らせ、刃を突き立てようとする地獄絵図。




