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2話


「え?」


 予想外の反応にカナリアは間の抜けた声が出る。


「もしかして今日マリアが辛そうなのって……その花嫁さんに何かあったとか?」


「――」


 未だに冷たい目で沈黙を貫くマリアは、やはりいつもと違っていた。


 昔は、もっとやり場の無い怒りのようなものを感じた。


 陽光は天界を照らし始めたばかり、未だこの光を地表の暗闇は知らない。


 だからマリアは同調してしまっているのだろう。


 沈んで、俯いて、その黒く淀んだ瞳から未だ魂の昇る地表に雫を数滴の雫を落として、目元に熱が帯びる。


「神様と結ばれた天使は――もういない?」


「う……ん。うん」


 仮にマリアの語った物語が本当だとして少女はどこに消えたのだろうか。


 普段気にしない日常の会話。 だけどふとした時に言葉が詰まる時がある。


 ここで浅慮な発言は壊れてしまう。そんな意味のない危機感を感じた。


 天使には死という概念は存在しない。 ならば生きている。 ただ、天界にはいないだけ。


 だとしたら。


 カナリアは「もしかして」と、マリアの涙がこぼれた地表に目を向けて息を飲む。


「――――」


 とても嫌な予感が脳裏を過った。 背筋がゾッとした。でもカナリアは聞かずにはいられなかった。


「まさか地表に堕とされたって――ことですか?」


「……まぁ」


「なんで!?」


 未だ悲しみを顔に浮かべるマリアが唐突に語りだした脈絡のない天使と神の結婚。


 その内容の点と点が繋がり、同時に一抹の疑問がカナリアに残る。


 それはどうしてマリアが堕天した天使の動向をリアルタイムで捕捉できているのかということだ。


 気になる。 だけど″これは″聞いちゃいけない。


 口をまごつかせるカナリアに、マリアは少し気の抜けた顔で肩を落として空を見上げて魂に目を眇る。


「カナリアはさ。 天洞てんどうって覚えてる?」


「え? まぁ、はい。 マリアが絶対に近づいちゃダメって言ってたあの、天使が住まうスラム街の穴ですよね?」


 今までずっとマリアから覗き込むな、近寄るなと釘を刺された場所。


「理由や理屈は知りませんが、地表を――見るもの、だと、マリア……が」


 そこまで口にしたカナリアは意気揚々と語った言葉が汗に比例して少なくなっていく。


 額から顎を伝う汗。 カナリアの異変にマリアはやたらと品のない笑みを浮かべて奥歯を鳴らした。


「あの……」


 脳裏によぎった嫌な予感、その答えが正解とは限らない。


 だけど――これは、きっと適当にあしらっていいものではない。


 カナリアは鼻下に人差し指、口元に親指をあてて仕事前に目の端に映った妙にざわついたスラム街の異変を思い出す。


 今更気にもとめてなかった天洞の存在意義。 ただ地表の人から供物を得るためではない?


 ――なら――


「あぁ。 そうだ。 だからずっと天使たちは地表を観てたんだ」


「いや、いやいや。有り得ませんよ。 それは……だってあの穴は人を、文明の発展を、手を差し伸べる人々を救済するための……」


「あはは、地表を見るってそう解釈しちゃってたのか」


 マリアの乾いた笑いでため息を吐く。


「たしかに、昔は地表を生きる神格人種(エーテライト)を見守り、高潔な魂を天使へと昇天させる云わば″願いの果ての救済措置”として機能していたのは事実だけど」


 マリアは嫌そうに前髪を左手で握りしめて口元を歪める。


「だけど……いつから、変わっちゃったんだろうね」


 マリアの視界に過去がチラついた。


 娯楽に飢えた嗤う天使。


 記憶を奪われ、何も知らずに微笑む同胞。


 手足を拘束され、この観測所から蹴落とされた仲間をマリアは何人も見送った。


 罪とは何なのだろうか?


 罪すら知らずに堕とすことになんの意味があるのか。


 冤罪を着せて、地表へと堕とす。 それに気がついた時には既にこの手は汚れていた。


 だから余計にマリアは自分が許せなかった。


「私は、天使を堕すのも、天洞も嫌いだ。 わたしはこんな娯楽(もの)の為に天使になったんじゃない」


「天使を堕とす……? 娯楽? その言い方じゃまるで天洞に群がる天使達は暇つぶしに――」


 感情的になると同時に言葉が詰まる。


「カナリアならわかるだろ? 天使ってのは悪意を持たないだけの嗜虐者だ」


 心当たりがあった。 だからカナリアはマリアが語る天使の残虐性を否定できなかった。


 視線を逸らすカナリアを見つめたマリアは少し目尻が柔らかくしてから過去を振り返るように登る恒星に目を眇める。


「マリアのその言い方だと、まるで好奇心や娯楽、ただそれだけの為に天使は同族すらも利用して、天界から落としていたみたいじゃないですか」


 大天使であるマリアの口から天使という存在を心のどこかで否定して欲しかったのかもしれない。


 だから天使を擁護するような都合のいい言葉を嘘でも平然と吐けてしまう。


 あの人たちは私達姉弟を蔑ろにしてきた。 それをマリアだけには共感して欲しかった。


 途端、暴風が観測所の花々を舞い上げて視界を奪い、気がつくとパタリと風が吹き止み、世界から音が消える。


 カナリアはふと我に戻った。


 自分で言っておいて、マリアに「これ以上は言わなくってもいい」と言いかけた時、マリアは今にも泣きそうな声で唇を震わせた。


「――さぞ滑稽だったろうな。 娯楽で堕とされ、記憶を奪われた私の――ひとり娘の姿は」


「――ひとり娘?」


 望んでいた答えではなかった。


 欺瞞に満ちた善意で催促して引き出したのはマリアが今まで一度も見せなかった弱い部分。


 カナリアは自分の言動の愚かさに息が詰まる。


 自分は今、命の恩人の触れるべきではない瘡蓋を掻き剥がしたのだと。


「それって――どういう」


 堕とされたのは神の妃なのだろうとは薄々感じてはいた。


 しかし、それがマリアの娘だったなんて。 反射的に返した疑問をすぐに噛み殺す。


 マリアはやり場の無い怒りを誰に向けるでもなく、カナリアを一瞥してから淡々と冷めた声音で空に吠えた。


「そのままの意味だよ……数年前に堕天させられたのは、神に嫁いだ私の娘だ」


 マリアから明かされた予想外の真実にカナリアは言葉を失った。


「まぁ、娘、なんて言っていい身の上じゃないんだけどね」


「そんな……なんで」


 握った拳から指が解け、瞳を潤ませるマリアはその涙を零さないように空を見上げて瞼を閉じる。


「……はぁ〜長いようであっという間だったなぁ」


 まるで全ては仕方のない事だった。 そう割り切るように微笑むマリア。


 そんなマリアの諦めにも似た背中が、カナリアにはどうしようもなく許せかなかった。


「なんで……納得できるんですか……?」


 適当に受け流すべきだと頭では理解している。


 しかし今まで感じたことの無い憤りが、身体の奥深くから震え上がる衝動が、カナリアを突き動かしていた。


「納得するしかないのさ。 すべては過去なんだから」


「全て――過去?」


 マリアの言葉に頭が真っ白になる。


 過去ならなんでも仕方なかったなの? 過去ならマリアは全部なかったことのように受け止められるの?


 喉元まで吐きかけた怒り。


 それらをすっと空気と一緒に吸い込んで、小さな背中に寄り添うようにカナリアはマリアから視線を逸らす。


「…………私は。 母が行方不明になり、貧困で死にかけました」


 今言うことでは無いのかもしれない。


 そもそも私のせいでマリアは言いたくもない不必要な風呂敷を広げてしまっただけ。


 こちらに非がある。 そうだとしても。


「マリアは力のなかった私とは違います。 母として守れる立場だった。 なのになんで抗おうとしなかったんですか……?」


 カナリアはゆっくりとマリアに近づき声を荒らげる。それはただの八つ当たりなのかもしれない。


――あぁ嫌になる。


「なんで助けに行かなかったんですか……?たとえ罪を犯したとしても貴方だけは……」


 震える体、胸の奥でずっと泣き続けている自分に言い聞かせるように、カナリアは拳を握りしめてマリアに尋ねた。


 それは大切な存在が突然消える悲しみを時間で。


 納得で終わらせたマリアの在り方が、弱い自分を映し出した鏡のようでカナリアには許せなかったのだ。


「母親であるなら貴方だけは味方でなければならなかったんじゃないんですか?」


 右手で服の胸元を握る。


 まっすぐにマリアを見つめる未だ目の赤いカナリアの顔に光が差し込む。


 若さゆえの希望。 何処かで無くした炎。


 あまりにも尊く、噛みつきたくなるほどに透き通ったカナリアから向けられた感情にマリアの右頬が引き攣る。


「別に今でも私は娘を信じてる。 あの子は決して罪を犯していないわ」


「だったら!!」


 近寄るマリアが、そっとカナリアの両頬を両手で包み込み。 不敵に囁く。


「カナリア。 私は大天使なんて言われていてもね。 元が天使じゃない分。 この天界において取捨選択の権利は無いんだよ」


 無感情な声がカナリアの鼓膜を揺らす。 目が合った時、マリアの瞳は慈愛と諦観が渦巻く真っ黒に淀んでいた。


「今日のカナリアはいつもと違うみたいだ。 まるで八年前に迎えに行った時みたい――」


 自分の頬に触れているマリアの体温がやけに低い。


 その時、カナリアは漸く気がついた。 自分がずっと憧れていた恒星のようなマリア。


 手を伸ばし続けた燦燦と照らす彼女は燃えていた。


 燃えて、燃え尽きて、遂には燃やすものすら無くなった赤色巨星だった。


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