1話
私はお前が嫌いだ。
グゥっと腹の音が囀った。 そう、お前だ。
やたらと主張ばかりをする無駄で無価値なお前が大っ嫌いだ。
森の中にある小さく古びた小屋の中。 子鳥のさえずりが窓の外から聞こえた午前。
「――」
肺いっぱいに吸い込めない空気、薄い呼吸だけが幼い私が世界に生きている唯一の証明だった。
お母さんはきっともう帰ってこない。
そんな気がしていた。
だけど――もしかしたらがあった。
もしかしたら帰ってくるかもしれないから私は部屋の隅で膝を抱えて目を閉じた。
根拠のない希望でも、幼い私にとって世界の全てがお母さんだったから信じるしかできなかった。
ずっと、待ち続けた。
頭も、体も、我慢して、悲鳴すら上げずに純粋にお母さんの帰りを待ち続けていた。
それなのに……。
グぅっとお腹が鳴った。
情けないほど大きな音、私の意志とは関係なく主張するから、涙もつられて溢れだした。
「お腹、すいた」
重たい体も空腹に同調して立ち上がり、埃の積もった部屋を徘徊して足跡を残す。
「どこかに、ご飯、あったっけ?」
ひんやりとした部屋の中。 一緒に食べる予定だったパンを齧る。 緑になって、少し変な味がする硬いパン。
噛みちぎって、何度も奥歯で噛み込んで。
最初は食べ辛くっても食べれば食べるほど、塩気がきいて、柔らかくなって無我夢中で一人で食べた。
美味しかった。
音すら立てない生後数ヶ月の弟の横、家の中で我が身可愛さで真っ先に音を上げたこの馬鹿で幼い空腹が私を生かした。
――『ねぇ、思い出した?』――
思い出した。 食べ終わっても空腹は満たされなかった。
「生き――なきゃ」
取り憑かれたように家の食材を漁り、無くなれば弟を放置して私は私のために外へと繋がる扉へ向かう。
何度も転んで、床を這って。 壁伝いにおぼつかない足取りでドアノブに指をかけた。
蝶番が音を立てる。 こじ開けた扉の先をやたらと嬉しそうに見つめる私。
そこから先が地獄と知らない私。
生きたかった私。
主観が客観へと移り変わる。
外界へ向かう幼い過去が夢なのだと気づいた瞬間、意識が現実へと浮上した。
瞼が開く、目の前に広がる雲海。
「お母さん、まって――」
伸ばした左手が空を掻く。頬に涙が伝っている。
視界に映る景色は仕事場から稀に見える雲の絨毯で、日の出前、薄暗い青が今日も地平線の彼方まで広がっていた。
「思い出す? 思い――」
自分の頬を伝う涙に触れて最後に聞こえた誰かの言葉を無意識に復唱していると、背後から聞きなれた声に呼び止められる。
「カナリア、当番お疲れ様! 今日も魂は綺麗ね」
両手を後ろに組んだマリアが、純白の服を風になびかせて空を埋め尽くす魂に目を眇める。
「あれ?お母さんってだれ? ……全てが夢? だったの?」
昇る魂の観測所でカナリアは声を掛けてくれたマリアに気が付かず涙の理由を探していた。
知らない。 いや、正確にはずっと抜け落ちていたような過去を見た――そんな気がした。
指でせき止められなかった涙が顎を伝いこぼれ落ちる。
「おーい、カナリア! おーい!」
全く反応をしないカナリアの異変にマリアが目の前で大きく手を振って不満そうに口を膨らませる。
「お、おはようございます。 マリア」
「もう、無視なんてらしくない!」
「無視、してたんですか? すみません、少し意識を失ってたみたいで」
「なにそれ? もしかして仕事中に変なものでも見た?」
「変な、もの――言われてみれば変なものを見たのかもしれません」
「――へぇ?」
くすくすと笑っていたマリアの声が一瞬だけ低くなると表情が消える。
「はい……とても私に似た。魂のようで魂ではない、まるでとても近い何か――」
「それ、誰にも言ってないよね? 報告書にも書いてないよね?」
強風が吹く。
靡くブロンズの髪の隙間から覗く金色の瞳が、カナリアをじっと見つめている。
「はい、まだ報告書にも……」
カナリアは言葉を詰まらせながらありのままを伝えるとマリアはカナリアの返答に安堵したのか。 表情を一変させ、ふふんと鼻を鳴らして胸を張る。
「そうならいいのよ! それよりカナリア、今、お腹は空いてるでしょ?」
「え、えぇ。 いつも空いてますよ?」
「そう言うと思った。 ほら、少ないけど今日地表から備えられたクッキーさ」
「え!あ……ありがとうございます!!」
売り言葉に買い言葉、本当は食欲なんて無い。 でも差し出されたクッキーを見ると唾液が溢れる。
私は感謝を伝え、口いっぱいに頬張ってマリアにぶっきらぼうな笑顔を作る。
「美味しいでふ」
喉を通らない。 咀嚼する度に吐き気が催す。
「ねぇ、カナリア。幸せ?」
「へへ」
適当な相槌。 今もずっと、この空腹は満たされない、満たされないから食べ物が喉を通らない。
食べる度に、美味しいを感じる度に、家で帰りを待つ弟が今も体温を下げている気がする。
「頬袋にまで詰め込んで、相変わらず食いしん坊だね。本当に――惚れ惚れする食べっぷりだ」
いつも食べ物を恵んでくれるマリアは優しい。
だから好き。だから食べないと。 マリアには幸せになって欲しいから無理して喉元を通す。
「いつもお腹空かせてすみません」
「謝ることじゃないわよ!それよりちゃんと食べないと、だめだよ?」
溌剌としたいつもの調子のマリアがカナリアの小さな背中を叩いて鼓舞する。
「マリア痛いです!」
「痛いのは生きてる証!お腹が空くのは生きたい証!いつまでも失敗を気にしちゃ前に進めないわよ!空腹最高よ!お腹も空かないなら――死んだ方がマシ、でしょ?」
「それは言い過ぎじゃ――でも、はい。ありがとうございます」
マリアの言葉に元気づけられて、カナリアは少しだけ笑顔になれた。
「カナリア、あなたは何も気にしなくっていいから、今朝の事も全部私に待っっかせなさい!」
「マリアには、敵いませんね」
何も気にしなくっていい。 マリアがそういうなら気にしないでいいのかもしれない。
いつもなら聞き流すカナリア、それなのに今日に限って一抹の不安が頭を過ぎった。
意識を失う前、いつも観測している魂の色とは別、得体の知れない何かが忽然と私の前に現れた。
罪の赤でも幼き青でもない。 まるで自分自身の写し身のような、そんな何か。
「んで、掘り返すようで悪いんだけどさ。 久しぶりの夢はどんな夢だったの?」
「――とても、懐かしい夢を見た気がします。 お母さんを待つ、幼い私の夢です」
ふと目に付いた爪の隙間に入り込んだクッキーのカスをカナリアは指で払う。
「お母さんの――ね。 魂が覚えていたのかな?」
「記憶じゃなくって、ですか?」
「魂だね。 いやぁー、それにしてもカナリアが寝るなんて本当に珍しいこともあるね! 嬉しいよ!」
「それ、複雑なんですけど……」
溌剌としたマリアを半目で睨むカナリア。
「いいねいいね〜、やっと眠れるようになったんだ! おばあちゃん嬉しいよ」
「おばあちゃんって、そんな歳でもないですよね?」
「何言ってんのよ!お肌つやつやで髪もサラサラ、私なんかとは比べ物にならないくらい綺麗なカナリアと比較しちゃぁ、私なんておばあちゃんさ。 いっそおばあちゃんって呼んでもいいんだよ?」
「マリア、それは私をからかい過ぎですよ。 族長の妻をおばあちゃんだなんて呼んだらそれこそ死活問題です」
誉められたことに照れながらも、冗談にならないマリアの提案にカナリアは頬を膨らませてそっぽを向く。
「いいじゃないか、私はうれしいよ?」
言い返したいが、今回ばかりは眠ってしまった自分が悪いから怒るに怒れない。
「もうやめてください」
「怒らないでよ!」
ケラケラと笑うマリアは気にしてないような振る舞いをしながら、目が笑っていない。
「ただ、気になっただけさ。 それで、なんで寝てたの? 眠った理由も変なものを見たせい?」
微笑むマリアから向けられる白い歯が目に入る。
マリアはただ気にかけてくれていだけ、その筈なのにカナリアはなんとなく、今嘘を吐けば殺されると思った。
親しくしてくれたマリアが他の天使の様な、そんな裏切りは絶対しないと頭では分かっている。
でも、なぜかマリアがいつもと違う気がした。
元気な声、抑揚もいつも通り。 笑顔も素敵。 それなのに、目だけが笑っていない。
「ごめんなさい。なんで寝てたのか私にもわからなくって……あ、そういえば私、仕事――」
握っている真っ白な報告書が視界に入り、途端に全身から血の気が一気に引く。
「あ〜……えっと、カナリア? そういう日もあるから気にしちゃ――」
「ごめんなさい!! 私!!」
気にしていないマリアの言葉を遮り取り乱すカナリア。
――マリアがやたらと夢を聞いてきた理由は私が仕事を怠ったから?
もしかして――本当に、殺される?
「わざとじゃないんです!! 仕事、神様に出さなきゃいけない報告書を私!! お願いです!!」
マリアに推薦されて、みんなが私だけに任せてくれた生きる為の唯一の仕事。 それを、私は。
「マリア、許してください!」
「落ち着きなよ、カナリア」
「でも!!」
どうしよう。どうしよう、どうしようどうしよう。
天使のみんなは絶対に私を許さない、きっと二度はない。
また――殴られる。
「それは気にしてないよ」
――嘘だ。
「つ、次は絶対に、必ず、二度と同じことはしません!!」
「カナリア!!」
――どうせみんなに言いふらされる。
「お願いです!!だから!!」
報告書を手放して、カナリアは目を見開いて震える手でマリアの裾を握る。
「どうか、許して――」
今にも壊れそうなカナリアをマリアは反射的に抱きしめる。
「大丈夫だから」
強く、まるで骨がきしみそうな程に優しく。 カナリアは両腕で抱きしめられてようやく我に返る。
「すみません、取り乱して……」
「よしよし、カナリアは勤勉だねぇ〜こんな意味もない仕事に真面目に取り組んじゃってさ。えらいえらい!他の奴らは適当な報告をするんだよ?」
「――他の方々は生きていけますから」
抱きしめ返したい。もっと触れていたい。
マリアの背中に手を伸ばそうとしかけるが、私にはそんな資格は無い。
縋り付けないから衝動を押し殺して、カナリアはマリアをゆっくりと突き放す。
「でも弟はまだ食べないと生きていけません。 お姉ちゃん頑張らないと弟は――守れない」
くしゃと顔を歪めるカナリアの笑顔に、マリアは視線を逸らして彼方の星へと目を向ける。
「ごめんね、こんな深夜の仕事しか斡旋してあげられなくって……」
「マリアは悪くないです!! 全部眠ってしまった私が悪いんです! 夜明け前に変なものを見たせいで――」
普段のマリアなら言わない言葉に、気を遣わせてしまったとカナリアは急いでフォローする。
「今日は、すみません」
「気にしないでいいよ、そういう日もあるさ」
昇りはじめた陽光が二人の影を長く伸ばす。
「――ありがとうございます。マリア」
観測台に差し込む光が柔らかなカナリアの表情と靡く白髪をかすかに照らす。
「そう言えば……カナリア……」
何かを言おうとするマリアがカナリアの姿を目にした瞬間、言葉を詰まらせる。
いつもと違うその表情に、カナリアは小さく首を傾げる。
「ふふ、今日は元気すぎるくらい元気だとは思ってましたけど、珍しく疲れてるんですね」
その言葉にマリアは目を丸くする。
「イデルバですら分からなかったのに……カナリアは流石だね」
「イデルバは族長として忙しいですから、きっと余裕がなかったんですよ」
「あ……あぁ……良くも悪くもだね」
マリアは言いかけた唇を噛み締めてから目を伏せる。
「安心して下さい! イデルバはちゃんと素敵な旦那様です!」
「素敵な、ね」
すぅっとマリアは冷え切った空気を大きく吸い込んでその小さな躯体を伸ばして息を吐く。
「もしかして、イデルバと何かあったんですか?」
「んにゃ、私たち夫婦は変わらずいつも通りさ」
「なら――」
やからと食い下がるカナリアに、マリアは肩を落とす。
「たとえ半永久的に生きられるって言っても私たち天使が今を生きてる事に変わりはないから落ち込むことだってあるさ。 そんなに意外?」
「はい。 私の中でのマリアさんの印象は弱音を吐かずに常に前向き姉貴肌! って感じなので」
「あは! そりゃイメージダウンは必然だ!」
ガッツポーズで逞しさを表現しつつ自分なりの印象を伝えると、マリアは腰に手を当てあからさまに溌剌とした高笑いをした。
雲海がオレンジに色付く。
落ち着いたマリアの横顔。 昔、地上で起きた戦争が原因で落ち込んでいた時も同じ顔をしていた。
きっと今回も同様で、地上の人々の争いにマリアは胸を痛めているのだろう。
「カナリアはさ。 誰かを愛したことある? いや、インバードがいるから愚問か」
この空より高い都市から地表を見下ろすマリアは、小さくため息混じりに言の葉を吐いた。
「インバードは違いますよ! 弟を大切にするのはお姉ちゃんとして当たり前の義務ですよ?」
「――なら神様は、好き?」
「当然ですよ。 今私が生きられるのはヴェルゼナ様がお仕事をくださってくれたおかげ。 この仕事は神様の祝福でしょう。感謝しかありません」
マリアが何を話したいのか分からず、カナリアは両手を握り、神の住まう神殿へと目を向ける。
「カナリアは天使だねぇ」
「一応、母は天使ですから……」
「じゃあお母さんは好き?」
「大好きでしたよ、空腹を知らない。 大好きな時間でした。 それで、あの、質問の意図が分からないのですが?」
困惑するカナリアに、マリアは小さく頷く。
「ごめん、話が逸れちゃったね、ただカナリアに気持ちを聞きたくってさ。 昔ね、天使の少女と神は恋に落ちたの。そして結婚をする為に神様は天使族全体と契約を行った」
つまり天使と神の契約にマリアが私に尋ねた″愛″が関係していると?
「うーん。 それは――私にはわかりませんね」
「どのへんが?」
「え? そうですね、結婚のところ、ですか? 馬鹿みたじゃないですか、それで何が満たされるんですか?」
不敵な笑みを浮かべるカナリアに、マリアはわざとらしく、ケラケラ笑う。
「馬鹿……か。 そうだね、馬鹿じゃなきゃ愛なんて語れないな!」
「そんなに変なこと言いました?」
「変じゃないさ、ただ私も、ヴェルゼナも、きっとどうしようもなく幸せっていう呪いに骨抜きにされちまったのかもね。 カナリアは、大切なものをちゃんと愛しなよ?」
マリアは笑い終えると、優しい眼差しでカナリアを見つめてほくそ笑む。
「マリ……ア?」
「ほらほら、口が汚れてるよ。 全く、もう」
戸惑うカナリアに、マリアは何処か寂しそうに目を細めて口元に残ったクッキーの食べかすをハンカチで拭う。
「よく分かりませんけど、つまりマリアは私に神様はとっても天使を大切にしていたってことを言いたかったんですね!」
「――? そうさね、愛されていたね。 遠目でしか見れなかったがいまだに花嫁姿がこの瞼にこびり付いているくらいさ」
カナリアが鼻を鳴らしてマリアの言葉の意味を理解すると、マリアは目を伏せてカナリアの頭を撫でた。
「なら、その花嫁様は今もまだあの神殿にいるんですか?それだったらちょっとだけ、憧れちゃいますね」
一歩だけマリアから離れてはにかむカナリア。舞い散る花びら、風に煽られた髪が乱れる。
登る朝日を背景にしたカナリアがあまりにも儚く、美しく。一瞬だけ言葉を失ったマリアは今にも泣きそうに瞳を揺らして告げる。
「もう居ないよ」
「ーーえ?」
まだ気温の上がらない空気を吸い込んだマリアの息だけが白くなる。愛おしそうに視線を下げて、断言する。
「もう花嫁は、ここには……”天界”には、いないんだ」
この度は閲覧していただきありがとうございます。
今作は賞に応募するために執筆した作品のため、一巻分の投稿が終わったら更新を止める予定です。
もし、続けて欲しいなどの声があれば、八月前半までは連載をするかもしれませんが、賞に応募する際は非公開にしますので悪しからずご了承ください。




