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その指輪、彼女に差し上げてください  作者: 秋月 もみじ


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第2話 帳簿の前の人


「君ならすぐ片付くよ」


その言葉に、私はもう驚かなくなっていた。


フェルゼン家の客間に通されて、出された紅茶に口をつけるより先に、マティアス様は次の夜会の贈答リストを私の前に滑らせてきた。挨拶は「やあ、来てくれたか」の一言。本題までの所要時間は、おそらく十秒を切っている。早い。せめて紅茶が温かいうちに本題に入る前置きくらいは欲しいところだが、贅沢は言うまい。


「招待客が三十二名。家ごとに格を見て、贈り物を割り振ってほしいんだ。前にも一度やってもらっただろう」


一度ではない。四度目だ。けれど数えているのは私だけなので、ここで訂正しても角が立つだけである。私は黙ってリストを引き寄せ、目を通し始めた。


紙の上に並んだ名前を見れば、おおよその見当はつく。どの家が去年も招かれたか、どの家とは少し距離を置きたいか、どの家が贈り物の格に異様にうるさいか。覚えているからだ。覚えてしまうのだ。誰が何を贈り、誰が何に機嫌を損ねたか。私の頭の中には、この家のための帳簿が一冊、勝手に出来上がっている。誰にも頼まれていないのに。


「ベルナール侯爵家には、去年と同じ品では駄目です。あちらは記録を取る家ですから」


「そうなのか?」


「ええ。同じ物を二度贈ると、軽く見られたと受け取られます」


マティアス様は「君は本当に詳しいな」と感心したように言った。詳しいのではない。これは、誰かが覚えていなければこの家が恥をかく、というだけの話だ。そして覚えている誰かは、いつのまにか私に固定されている。固定された覚えはないのだが。


「じゃあ、任せるよ。君なら間違えないだろうから」


任せる。出た、もう一つの呪文である。「君なら分かってくれる」の親戚筋にあたる言葉で、効能はほぼ同じ。唱えた瞬間に、面倒事の所有権がこちらへ移転する。実に経済的だ。本人の手はまったく汚れない。


私はリストに目を落としたまま、品の割り振りを書き出していった。羽ペンの先が紙を擦る音だけが、客間に小さく響く。マティアス様は途中で立ち上がり、「ローラの様子を見てくる」と言って出ていった。婚約者を贈答作業に残して、乳姉妹の様子を見にいく。優先順位というのは、こうも分かりやすく態度に出るものらしい。


一人になった客間で、私はようやく紅茶に口をつけた。冷めていた。


知っていた。


リストの半分ほどを片付けた頃、ふと視線を感じた。客間の奥、半分開いた書斎の扉の向こうから、誰かがこちらを見ている。私は顔を上げた。


書斎の机についていたのは、マティアス様の兄上だった。当主のクリストフ様。茶会で何度か顔を合わせたことはあるが、言葉を交わした記憶はほとんどない。寡黙な方だと聞いている。実際、今も何も言わずに、ただ私の手元のあたりを見ていた。


見られて困る作業ではない。けれど、誰かに作業を見られること自体が、私にはひどく久しぶりだった。この家で私が何かをしているとき、たいてい周りには誰もいない。いても、私の手元など見ていない。


「……何か」


私がそう尋ねかけると、クリストフ様は短く首を振った。


「いや。続けてくれ」


それだけだった。私はまたリストに目を戻す。けれど、視線はしばらく続いた。咎める視線ではない。値踏みする視線でもない。何と言えばいいのか、見慣れないものを見ている、という感じに近かった。


しばらくして、クリストフ様が誰かを呼ぶ声がした。侍女がひとり、客間に入ってくる。


「その茶を下げて、新しいものを。温かいうちに出すように」


侍女が一瞬、戸惑った顔をした。それはそうだろう。この家で、私の紅茶の温度を気にした人間など、これまで一人もいなかったのだから。侍女はすぐに頭を下げ、冷めた杯を下げていった。


私は手を止めて、書斎のほうを見た。クリストフ様はもう机に向き直っていて、こちらを見てはいなかった。礼を言うべきか迷ったが、相手が顔を上げないので、言葉のやり場を失った。仕方なく、「ありがとうございます」とだけ、扉の向こうへ向けて言った。


返事はなかった。けれど、書斎のペンの音が、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。気のせいかもしれない。


新しい紅茶が運ばれてきた。湯気が立っている。温かい紅茶というものが、こんなに当たり前で、こんなに久しぶりなのが、自分でも少しおかしかった。私は笑いそうになって、堪えた。贈答リストを前に一人で笑っている令嬢など、使用人に妙な噂を立てられかねない。


割り振りを終えて顔を上げると、マティアス様が戻ってきた。ローラを連れている。ローラの指には、淡い青のリボンで包まれていたあの指輪が、当然のように光っていた。


「終わった? さすがだね」


マティアス様はリストを軽く眺め、内容を確かめもせずに「これでいこう」と言った。三十二名分の格の見極めを、彼は一瞥で承認した。中身を読んでいないことは、視線の速度で分かる。読まずに任せられるというのは、信頼なのか、無関心なのか。たぶん本人は前者だと思っている。


「フィオナ、あなたって本当に何でもできるのね」


ローラがそう言って笑った。悪気はない。心の底から、私を便利な人だと思っている。便利。それは褒め言葉のつもりなのだろう。物を褒めるときの言葉だ、とは、彼女は考えたこともないのだろうけれど。


帰り際、玄関の広間を抜けるとき、書斎のほうから少しだけ気配がした。けれど扉は閉まっていて、もう誰の姿も見えなかった。


馬車に乗り込みながら、私は今日の出来事を、頭の中の帳簿にもう一行書き足した。


当主が、私の紅茶の温度を見ていた。


それが何を意味するのか、このときの私には、まだ分からなかった。

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