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その指輪、彼女に差し上げてください  作者: 秋月 もみじ


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第3話 母の指輪


母が遺したただ一つの指輪を、私はその朝、久しぶりに指にはめた。


母の命日が近い。毎年この時期だけは、装身具箱の奥にしまってある指輪を取り出して、数日のあいだ身につける。細い銀の輪に、小さな石が一つ。値打ちで言えば、ローラが今つけている指輪のほうがよほど高い。けれど、私にとっての値打ちは、宝石商の物差しでは測れないところにある。


指輪の内側には、母の字で短い言葉が刻んである。爪の先でなぞると、線の凹凸が指の腹に伝わってくる。子どもの頃、母の膝の上でこの文字を覚えた。読めるようになるより先に、形だけを覚えていた。


「お嬢様、お支度が」


アガサの声で、私は箱の蓋を閉じた。今日もフェルゼン家の茶会がある。気は進まないが、招待されている以上、行かないわけにもいかない。婚約者の家の集まりを、婚約者が欠席するわけにはいかないのだ。理屈の上では、私はまだ婚約者なのだから。


フェルゼン家の庭の東屋に着くと、すでにローラが先に来ていた。マティアス様の隣に、当然の顔で座っている。私の席は、いつものように一つ離れたところ。婚約者の隣は乳姉妹専用の指定席になって久しい。指定した覚えはないが、慣れというのは恐ろしいもので、最近は驚きもしなくなった。


「フィオナ、その指輪」


席につくより先に、ローラが私の手元に目を留めた。彼女の視線が、私の左手の指で止まる。私は反射的に、その手をもう片方の手で隠したくなった。けれど隠せば不自然だ。だから、隠さなかった。これが間違いだったのかもしれない。


「素敵。見たことのない石ね。どこのもの?」


「母の形見です」


そう答えれば話は終わると思っていた。形見、という言葉には、普通、それ以上立ち入らせない重さがある。少なくとも、私の感覚では。


「ふうん。可愛い。ねえ、ちょっと見せて」


ローラが手を伸ばしてきた。私が答える前に、マティアス様が口を挟んだ。


「ローラがそんなに気に入ったなら、少しのあいだ貸してあげたらどうだい、フィオナ」


時間が、わずかに止まった気がした。


貸してあげたら。


聞き間違いであってほしかった。けれど、東屋の空気は確かにその言葉を運んできた。マティアス様は、悪びれもせずに微笑んでいる。彼の中では、これは親切な提案なのだろう。気に入ったものを、気に入った相手に、少し融通する。物の貸し借り。たったそれだけのこと。


たったそれだけのこと、で済む物と、そうでない物がある。その区別が、この人の中ではどこかへ抜け落ちている。贈り物の宛名を覚えていないのと、同じ抜け落ち方だ。


私は膝の上で手を組んだ。左手の指輪が、もう片方の手のひらに触れる。冷たい銀の感触。母の字の凹凸。


「申し訳ありませんが」


声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。


「これは、差し上げることも、お貸しすることもできません」


東屋が静かになった。ローラが少し驚いた顔をする。マティアス様は、私がこんなふうにはっきり断ったことに、たぶん面食らっている。この半年、私はたいていのことを「ええ」と「承知いたしました」で受けてきた。その私が、初めて明確に首を横に振ったのだから。


「そんなに大げさに考えることじゃないだろう。ほんの数日だよ」


出た。「大げさに考えることじゃない」。これも便利な言葉の一族である。相手の事情の重さを、こちらの一存で軽くできる、たいへん都合のよい呪文だ。唱えれば、相手が断る権利のほうが小さく見えてくる。


けれど、今日ばかりは効かなかった。


「私にとっては、大げさです」


それだけ言って、私は口を閉じた。長く語る必要はない。語れば語るほど、言い訳がましくなる。母の指輪がどれほど大切か、私がどんな思いでこれを身につけているか、そんなことを説明する義理は、この場の誰にもない。


マティアス様は、しばらく何か言いたげにしていたが、結局「……まあ、君がそう言うなら」と引き下がった。ローラは「ごめんなさい、無理を言って」と、いかにもしおらしく謝った。けれど、その謝罪が本心からどれだけ出ているのか、私には測りかねた。彼女はすぐに別の話題に移り、自分の指の指輪を眺めて笑っていた。あの淡い青のリボンで包まれていた指輪を。


茶会の残りは、いつものように過ぎた。私は冷めた紅茶を飲み、当たり障りのない相槌を打ち、頃合いを見て辞去した。


東屋を出るとき、給仕の侍女と目が合った。第一の茶会で目を伏せた、あの侍女だった。彼女は今度は目を伏せなかった。代わりに、ほんのわずかに、頭を下げた。何かを詫びるような、あるいは何かを労うような、そんな下げ方だった。気のせいかもしれない。けれど、この家の使用人は、私が思うより多くを見ている。たぶん、彼女も。


その夜、私は自室で指輪を外し、いつもの箱に戻した。母の字の刻まれた、細い銀の輪。爪でもう一度なぞってから、蓋を閉じた。


「お嬢様」


寝支度を手伝いながら、アガサがぽつりと言った。


「奥様……亡くなった奥様は、その指輪を、お嬢様に遺すとき、何とおっしゃったか覚えていらっしゃいますか」


「ええ」


覚えている。忘れるはずがない。


母は言った。家同士の縁を、大切にしなさいと。波風を立てず、辛抱強く、相手の家を支える妻になりなさいと。私はその言葉を守ってきたつもりだった。この半年、私が「ええ」と「承知いたしました」を繰り返してきたのは、たぶん、その言葉のせいでもある。


けれど今日、私は初めて、母の言葉に逆らった。母の形見を守るために。


縁を大切にするということと、自分を差し出し続けるということは、同じではないはずだ。そう思いついたとき、私は少しだけ、自分の中の何かがほどけた気がした——という言い方は、たぶん綺麗すぎる。正しくはこうだ。


もう、付き合いきれない。


そう思っただけだった。けれど、その実感のほうが、どんな決意の言葉よりも、ずっと足元が確かだった。


断ったときの自分の声が、思いのほか落ち着いていたことに、私は少しだけ救われていた。

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