第11話 縁の選び直し
「あなたに、正式に頼みたいことがある」とクリストフ様は言った。
形見の指輪が戻ってから、ひと月ほどが過ぎていた。レオンハート家での暮らしは、すっかり落ち着いていた。自分の家の帳簿を開き、自分の家の算段をして、温かい紅茶を温かいうちに飲む。それだけの日々が、こんなにも穏やかだとは、半年前の私は知らなかった。
そんなある日、クリストフ様が、また一人で、レオンハート家を訪ねてきた。
正直に言えば、用件の見当がつかなかった。婚約は解消した。贈答の精算も終わった。形見も戻ってきた。もう、この人と私のあいだに、片付けるべき用事は残っていないはずだった。だから、応接室で向かい合ったとき、私は少しだけ身構えた。心の中の帳簿を、用心のために開いておく癖は、相変わらず抜けない。
「頼みたいこと、と申しますと」
「フェルゼン家の家政を、立て直したい」
クリストフ様は、まっすぐにそう切り出した。
「弟が采配を握っていたあいだに、贈答も、社交も、ずいぶん乱れた。記録も、人の配置も、一から整え直す必要がある。だが、当家には、それをまともにできる者がいない。これまでそれを担っていたのが、誰だったのか——今になって、痛いほど分かった」
私は、すぐには返事をしなかった。
話の向かう先が、見えてきていた。そして、見えてきたからこそ、私は少しだけ、怖かった。また、あの半年が始まるのではないか。「君ならできるだろう」「君なら分かってくれる」と言われて、いつのまにか面倒事の所有権がこちらへ移ってくる、あの構図が。形を変えて、また戻ってくるのではないか。
「私に、フェルゼン家の家政を、また見てほしいと」
「そうだ」
「……それは」
私は、言葉を選んだ。選びながら、声が少し硬くなるのを、自分で感じた。
「失礼を承知で、申し上げます。私は、もう、誰かの家の采配を、ただ働きで抱えるのは、二度とごめんです。一度、それで、自分が空気になりました。できて当たり前のものとして扱われて、私という人間は、どこにもいなくなりました。また、同じことになるのなら——」
言いながら、自分でも驚いた。こんなに率直に、怯えを口にするとは思っていなかった。半年前の私なら、たぶん、「ええ」と「承知いたしました」で受けていた。母の言葉を守って、波風を立てずに。けれど今の私は、もう、それができなくなっていた。一度足を引き抜いてしまうと、痺れていた頃には、戻れないものらしい。
クリストフ様は、私の言葉を、遮らずに最後まで聞いた。それから、静かに言った。
「ただ働きには、しない」
私は、顔を上げた。
「正式な顧問として、迎えたい。立場も、権限も、報酬も、すべて書面で取り決める。あなたが整えた采配を、当家の誰かが横から崩すことのないよう、決定の権限を、あなたに持たせる。あなたの仕事に、当家として、正当な対価を払う」
クリストフ様は、持参した書面を、卓の上に滑らせた。私は、それを引き寄せて、目を通した。
家政顧問としての立場。報酬の額。職務の範囲。そして、采配についての決定権が、明確に私に委ねられること。一行ずつ、丁寧に書かれていた。あの引き継ぎの紙を読む速度で、この人は、この書面も、一行ずつ詰めて作ったのだろう。無駄のない、けれど、抜けのない文面だった。
「これは……」
「あなたを、便利な人として使うつもりは、もうない」
クリストフ様の声が、少し低くなった。
「役割を押し付けるのではない。あなたの判断を、信じている。だから、その判断に、ふさわしい立場を用意したい。あなたが整える采配は、当家の誰の采配でもなく、あなたの采配だ。それを、当家が正当に評価する。そういう形にしたい」
私は、書面の上の文字を、もう一度、目でなぞった。
決定の権限を、あなたに持たせる。あなたの仕事に、正当な対価を払う。
半年のあいだ、私が一度も言われなかった言葉が、そこに、文字になって並んでいた。私の働きは、あの家で、ずっと名前のない空気だった。空気を褒める人間はいない。空気に対価を払う人間も、いない。けれど今、その空気に、立場と、権限と、報酬という、はっきりした輪郭が与えられようとしていた。
——胸が温かくなった、という言い方を、私はしない。そういう柔らかい感情では、なかった。むしろ、もっと実務的な、確かな手応えだった。ああ、この人は、私を物として扱わない。私を、判断のできる一人の人間として、勘定に入れている。それが、書面という、いちばん誤魔化しのきかない形で、示されている。
信頼というのは、優しい言葉で語られるより、こうして書面に書かれているほうが、よほど信じられる。代筆業をしていた頃から、私はそれを知っている。口約束は、いくらでも反故になる。けれど、書いた物は、残る。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「ああ」
「なぜ、私なのですか。家政のできる者なら、ほかにも探せるはずです。私は、一度、この家を出た人間です。元・弟君の婚約者を、わざわざ顧問に迎えるのは、外聞も、よろしくないでしょう」
クリストフ様は、少し、黙った。それから、こう言った。
「外聞を気にして、できる者を遠ざけて、また家を傾けるのは、もうたくさんだ。当家は、一度、それで失敗している」
それは、実に、この人らしい答えだった。情でも、世間体でもなく、ただ、最も筋の通った選択を取る。私は、思わず、少しだけ笑いそうになった。堪えた。顧問の話を持ちかけられて笑い出す令嬢など、商談の相手として、心もとないにもほどがある。
「……お受けします」
私は、書面に手を置いて、そう言った。
「ただし、采配について口を出す方が現れたときは、この書面を盾にさせていただきます。決定権は、私にあると」
「もちろんだ。そのための書面だ」
クリストフ様の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。笑った、というほどではない。けれど、この人の、無駄を削ぎ落とした顔が、わずかに動いたのを、私は見た。
この縁は、誰かに押し付けられたものではなく、私が選んだものだった。
母は、縁を大切にしなさいと言った。あの言葉を、私はずっと、波風を立てずに耐えることだと思っていた。差し出し続けることだと思っていた。けれど、今なら、違う意味で受け取れる。縁を大切にするというのは、自分を差し出すことではなく、自分を正当に扱ってくれる相手と、対等に結ぶことだ。
それを、私はやっと、自分の足で立ったところから、選び取った。
書面に署名をするとき、左手の薬指の、母の形見が、ペンを持つ手の少し先で、静かに光っていた。
応接室を出るとき、玄関でアガサが待っていた。私が書面を手にしているのを見て、アガサは何も聞かずに、ただ、長く息を吐いた。安堵の息だった。
「お嬢様」
「なあに」
「亡くなった奥様も、きっと」
そこまで言って、アガサは言葉を切った。続きは、言わなかった。けれど、今度の沈黙は、何かを飲み込む沈黙ではなかった。言わなくても伝わる、という沈黙だった。
私は、頷いた。たぶん、母も。そう思うことにした。




