第10話 戻る指輪
婚約の解消は、思っていたよりも静かに成立した。
両家の話し合いは、帳簿の一件があってからは、ほとんど揉めなかった。揉めようがなかった、と言うほうが正しい。フェルゼン家の側に、引き止める材料も、こちらを責める理由も、何ひとつ残っていなかったからだ。非があるのはどちらか、もう数字が示している。当主のクリストフ様が筋を通し、母上が頭を下げ、マティアス様は最後まで、まともに顔を上げられなかった。
解消の書面に署名を終えたとき、私は、自分でも意外なほど、何も感じなかった。半年のあいだ喉につかえていたものは、あの応接室であの人に婚約解消を切り出した日に、もう、ほとんど吐き出してしまっていたのだろう。今さら、書面の一枚で、新しく溢れるものはなかった。ただ、長く借りていた重い荷物を、ようやく正しい持ち主に返したような、それくらいの感覚だった。
書面を交わした数日後、クリストフ様から、もう一度使いが来た。
贈答の不始末の精算が、おおよそ片付いた。ついては、最後に、あなたに返さなければならないものがある、と。
私は、その「返さなければならないもの」が何なのか、すぐに見当がついた。記録の上で、まだ私のものになっている品。あの淡い青のリボンに包まれて届き、その場で別の指へ渡った、銀の指輪。
フェルゼン家の応接室で、クリストフ様は、卓の上に小さな箱を置いた。あの日、マティアス様が差し戻そうとしたのと、同じ箱だった。けれど、置く手つきが、まるで違った。
「記録の精算をした。あなた宛てと記録された品で、現物が他所にあるものは、すべて元に戻すか、正式に記録を改める。そう決めた。この指輪は、記録上、あなたのものだ。現物を、あなたに返す」
筋の通った話だった。けれど、私は、少し迷った。
「クリストフ様。その指輪は、もうローラの指にあったものです。一度よそへ渡った品を、改めて私が受け取るのは——」
「それは、贈り物としての話だろう」
クリストフ様は、私の言葉を、静かに遮った。
「これは、贈り物として返すのではない。記録の食い違いを正すために返す。あなたが受け取りたくなければ、当家で引き取る。だが、その場合も、記録上の持ち主であるあなたの了解がいる。あなたが、どうしたいかだ」
なるほど、と私は思った。この人は、私に物を押し付けているのではない。物の行き先を、私自身に決めさせようとしている。ローラに指輪を勝手に渡したマティアス様とは、まるで逆だ。あの人は、私の意思を一度も尋ねなかった。この人は、まず、私がどうしたいかを尋ねる。
「……ローラは」
私は、ふと尋ねた。
「ローラは、この指輪のことを、何か」
「自分から、返すと言ってきた」
クリストフ様の声が、わずかに和らいだ。
「あなたを訪ねたあとだそうだ。何を話したかは聞いていない。だが、戻ってから、自分が受け取ってきた品を、一つずつ整理し始めたらしい。記録と照らして、本来の持ち主に返すべきものは返したい、と。この指輪も、その一つだ」
私は、少しだけ、言葉を失った。
あの東屋で、皺だらけのハンカチを、何度も伸ばそうとしていた彼女を思い出した。一度ついた皺は、消えなかった。けれど彼女は、それを四角く畳んで、握って帰った。立ち方は誰にも教われない、と私は言った。慰めにもならない言葉だと思っていた。けれど、彼女は彼女なりに、足を動かし始めたのかもしれない。受け取ることしか知らなかった人形が、初めて、何かを返そうとしている。
「……分かりました」
私は、箱に手を伸ばした。
「いただきます。贈り物としてではなく、記録を正すものとして」
蓋を開けると、銀の指輪が、鈍く光っていた。あの日、ローラの指にはめられるのを、私が黙って見ていた指輪だ。今、それが、私の手のひらの上にある。妙な感じだった。けれど、不思議と、嫌な感じはしなかった。これはもう、私を素通りして誰かのものになる品ではない。行き先を、私が決めた品だ。それだけで、同じ指輪が、まるで違うものに見えた。
「それから、もう一つ」
クリストフ様が、言った。
「精算の途中で、妙なものが出てきた。あなたに、確かめてもらいたい」
家令が、別の箱を運んできた。少し古い、装飾の少ない箱だった。クリストフ様が蓋を開ける。
私の、息が止まった。
中に入っていたのは、細い銀の輪に、小さな石が一つ。値打ちで言えば、たいしたことのない指輪。けれど、私にとっては、宝石商の物差しでは測れない値打ちのある、母の形見だった。
「これは……」
「あなたの母上の形見の指輪だと、ローラが言っていた」
クリストフ様の声が、低くなった。
「精算のために、ローラが受け取った品を改めたとき、これが混じっていたそうだ。覚えがない、と。どうしてこれが自分の手元にあるのか、自分でも分からない、と。だが、あなたの形見だと聞いて、青ざめていた」
私は、震える指で、その指輪を手に取った。内側に、母の字が刻んである。爪の先でなぞると、線の凹凸が、指の腹に伝わってくる。間違いない。私の、母の形見だ。
なぜ、これが。
考えて、思い当たった。あの東屋の日。私が「貸せない」と断った、あの日。あのとき私は、確かに形見を守って、その夜、自分の箱へ戻した。けれど、命日の時期は、数日のあいだ身につける習わしだ。あの後も、私は何度か形見をつけて、当家へ足を運んでいた。そのうちの一度、茶会の支度で指輪を外し、当家の小物と一緒に控えの間へ置いたことがあった。戻したつもりでいた。けれど、戻っていなかったのかもしれない。私の知らないところで、これは、当家の品に紛れたまま動いていたのだ。誰かが、形見と知らずに、ほかの小物と一緒にしまい込んで——。
「マティアスだ」
クリストフ様が、私の考えを読んだように、言った。
「弟が、あなたが断ったあと、ローラを慰めるために、別の機会に渡したらしい。あなたが当家に置いていた家政の道具箱に、いつのまにか紛れていたそうだ。あなたが社交の支度であの指輪を外したとき、片付けを任された誰かが、ほかの小物と一緒にしまい込んだのだろう。弟は、それを形見とも知らず、ただ手近にあった品の一つとして持ち出した。本人は、最近まで、それが何かも分かっていなかった」
私は、目を閉じた。
母の命日の前の、あの東屋の日。私は、形見を守ったつもりでいた。けれど守りきれてはいなかった。私が断ったあとで、形見は、私の知らないところで、私の手を離れていた。貸せないと言った私の言葉は、聞き入れられたように見えて、結局、迂回されていたのだ。
怒りが、来てもおかしくなかった。けれど、来たのは、怒りより先に、深い疲れだった。ああ、この人たちは、本当に、最後まで、人の大切なものの重さが分からないのだな、という、底をついた感覚。何度も覚えた、あの冷めた紅茶のような感覚だった。
「……戻ってきたなら、それでいいです」
私は、目を開けて、そう言った。
「これが、私の手に戻った。それだけで、十分です」
母の形見を、私はもう一度、左手の指にはめた。細い銀の輪が、指に馴染む。久しぶりの重さだった。けれど、なくしたと知ることすらないまま失っていたかもしれないと思えば、この重さが、今は、ただありがたかった。
クリストフ様は、私が指輪をはめるのを、黙って見ていた。それから、低く言った。
「守りきれなくて、すまなかった。当家の不始末だ」
「クリストフ様のせいでは」
「いや。当家で起きたことは、当家の責だ。あなたの形見を、あなたの知らないところで動かした。それは、軽んじていたという以上のことだ」
この人は、また、かばわなかった。弟のことも、自分の家のことも。事実を事実として、机の上に置く。その潔さに、私は、何度目か分からない、喉の奥の動きを覚えた。今度は、堪えなかった。堪える理由が、もう、なかったからだ。
涙が出たわけではない。ただ、長く張り詰めていた糸が、少しだけ、緩んだ。それだけだった。
応接室を出るとき、私は二つの指輪を持っていた。左手には、母の形見。手のひらには、行き先を自分で決めた、もう一つの指輪。
馬車に乗り込みながら、私は手のひらの指輪を、しばらく眺めていた。
これを、どうしよう。母の形見と違って、これには、思い入れがない。けれど、捨てるのも違う気がした。私は物を捨てられない性分だ。そして今、この指輪は、私が初めて、自分の意思で行き先を選べる品になった。
行き先は、まだ決めていない。
決めていないけれど、決められるということ自体が、半年前の私には、なかったものだった。




