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その指輪、彼女に差し上げてください  作者: 秋月 もみじ


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9/12

第9話 かばわない兄


帳簿は、言い訳よりもずっと雄弁だった。


クリストフ様から、改めて使いが来た。贈答の不始末について、家として正式に筋を通したい。ついては、証人として立ち会ってもらえないか、と。私は、迷わなかった。立ち会う、と返事をした。立ち会う義理は、もうないはずだった。けれど、私の控えた帳簿が、誰かを正しく裁くために使われるなら、それは見届けたかった。書いた物には、書いた者の責任がある。これも、性分だ。


フェルゼン家の広間に通されると、すでに人が揃っていた。当主のクリストフ様。その向かいに、マティアス様。少し離れたところに、家令が控えている。そして、上座に近い椅子に、フェルゼン家の母上が、背筋を伸ばして座っていた。


母上と目が合った。あの方は、私の扱いを、ずっと黙って見てきた数少ない人のひとりだ。何度か、私を気遣うような視線を向けてくれたことはあった。けれど、口を出すことはなかった。当主はクリストフ様であり、婚約はマティアス様の領分。母とはいえ、家政の采配に口を挟む立場ではなかったのだろう。今日、その母上が、わざわざこの場に同席している。それだけで、この話し合いの重さが知れた。


私が椅子に座ろうとすると、クリストフ様が、自然な動作で、私のための椅子を引いた。


ほんの小さな仕草だった。けれど、この広間で、誰かが私のために椅子を引いたのは、初めてのことだった。婚約者だった頃ですら、なかったことだ。私は一瞬、手の置き場に迷った。そして、礼を述べて座った。マティアス様が、その様子を、妙な顔で見ていた。兄が、元・自分の婚約者の椅子を引いている。彼の中で、何かが噛み合っていないのだろう。噛み合っていないのは、たぶん、もっと前からなのだけれど。


「始めよう」


クリストフ様が、卓の上に二冊の帳簿を並べた。フェルゼン家の正式な綴りと、私の控え。それから、淡々と、食い違いを並べ始めた。


記録上は贈ったことになっているが、届いていない品。記録にないのに、別の場所へ渡っている品。日付の合わない贈り物。そして、私宛てと記録されたまま、別の指に渡った指輪。


一つ、また一つ。クリストフ様は、感情を交えずに、事実だけを積み上げていった。声を荒らげもしない。誰を責める言葉も使わない。ただ、帳簿の数字を読み上げる。それだけだった。それだけで、十分だった。数字は、嘘をつかない。言い訳のように、後から都合よく形を変えたりしない。


マティアス様の顔色が、少しずつ変わっていった。


「兄上、待ってください。それは……そんな、大げさな」


出た。「大げさ」。彼の最後の砦のような言葉だ。けれど、今日ばかりは、その砦はあまりに脆かった。


「大げさかどうかは、この数字が決める」


クリストフ様は、顔も上げずに言った。


「ベルナール侯爵家への重複した品。これ一つで、当家がどれだけ侮られたか、お前は分かっているか。記録さえ正しく取られていれば、防げた。だが記録は、お前が贈り物を気分で動かすたびに、意味をなくしていった」


「それは……ローラのことは、家族同然で、僕は良かれと思って」


「家族同然」


クリストフ様が、初めて、わずかに声を低くした。


「その言葉で、お前は何度、家政を私物化してきた。贈答は、家と家の信用のやり取りだ。お前の個人的な情を通す場所ではない。記録に残った品を、記録も書き換えずに別の相手へ渡す。それは、良かれと思ったかどうかの話ではない。家の信用を、お前の都合で勝手に使った、というだけの話だ」


広間が、静まり返った。


マティアス様は、何か言い返そうとして、口を開いた。けれど、言葉が出てこなかった。彼が頼りにしてきた言葉は、もう尽きていた。「君なら分かってくれる」も、「大げさだ」も、「家族同然だから」も、この帳簿の前では、ただの音だった。


私は、黙って見ていた。


胸がすく、という気持ちが、ないと言えば嘘になる。半年のあいだ、いくら言葉を尽くしても伝わらなかったことが、今、数字の前で、勝手に証明されていく。私が訴える必要すら、なかった。私はただ、控えを残しておいただけだ。書いた物が、私の代わりに、全部語ってくれている。


けれど、その胸のすく思いと同じくらい、私はどこか、静かでもあった。マティアス様が言い訳もできずに俯いている姿を見ても、思っていたほど、痛快ではなかったのだ。彼は悪人ではない。ただ、自分が踏んでいる足に、最後まで気づかなかった人だ。気づいたときには、踏まれていた相手は、もう足の下から出ていったあとだった。それは、罰というより、ただの、当然の帰結だった。


「フィオナ嬢」


クリストフ様が、私のほうを向いた。婚約解消の手続きが進んでから、彼は私を「レオンハート嬢」と呼んでいた。けれど今、少しだけ、呼び方が変わった気がした。気のせいかもしれない。


「あなたの控えがなければ、これは闇に消えていた。礼を言う。それから、当家の者が、長くあなたを軽んじてきたことを、当主として詫びる」


クリストフ様が、頭を下げた。当主が、頭を下げた。


私は、慌てた。当主に頭を下げさせるなど、本来あってはならないことだ。


「どうか、お顔を上げてください。私は、ただ、控えを残していただけです」


「その控えを残せたのも、残そうと思えたのも、あなたが、この家を真面目に支えていたからだ。支えていなければ、控える必要もなかった」


返す言葉が、なかった。


そのとき、ずっと黙っていた母上が、静かに口を開いた。


「フィオナさん」


私は、母上のほうを向いた。


「わたくしは、ずっと見ておりました。あなたが、どんなふうに扱われてきたか。何度、口を出そうかと思ったか分かりません。けれど、出せませんでした。それを、今になって悔やんでいます。もっと早く、止めるべきでした」


母上の声には、長く飲み込んできた何かが、にじんでいた。


私は、何と答えていいか分からなかった。あの方が見ていてくれたことは、薄々、感じていた。何度か、視線で気遣われたことがあった。けれど、立場というものが、人を黙らせる。母上もまた、当主でない以上、家政に口を出せなかった。それは、責められることではない。けれど、見ていてくれた人が、今こうして詫びてくれることに、私は思いがけず、救われていた。


——救われた、という言い方も、たぶん綺麗すぎる。正しくは、こうだ。誰も見ていないと思っていた半年が、実は、誰かにはちゃんと見えていた。それが分かっただけで、あの半年が、少しだけ、報われた気がした。報われる、というのも、また綺麗な言葉だけれど、今日ばかりは、許してほしい。


マティアス様の顔から、いつもの軽さが、すっかり消えていた。


彼は俯いたまま、ひとことも発しなかった。たぶん彼は今、初めて、自分が何を失ったのかを、数えているのだろう。指輪一つの宛名すら覚えていなかった人が、今になって、勘定を始めている。遅すぎる勘定だ。けれど、勘定を始めただけ、ましなのかもしれない。


広間を出るとき、私は一度だけ、振り返った。卓の上には、二冊の帳簿が、並んだまま置かれていた。私の控えの、擦り切れた革表紙が、フェルゼン家の立派な綴りの隣で、妙に堂々として見えた。


帰りの馬車の中で、私はふと、一つのことに気づいた。


記録の上で、まだ私のものになっている指輪。あの淡い青のリボンの指輪のことを、クリストフ様は、今日の場では、一度も「返す」とは言わなかった。


言わなかったのに、なぜか私は、あの指輪が、近いうちに動く予感がしていた。

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― 新着の感想 ―
兄が未婚なら、家政は母が取り仕切るものでは? このお家の流儀なのかもしれないけど、婚約者に丸投げする弟 丸投げを知ってる母、気づかなかった兄も無能
『母上もまた、当主でない以上、家政に口を出せなかった。』 いやいや、領政ならともかく、家政は当主ではなく女主人である母上の仕事では? それに、クリストフはフィオナが作った引継書を持って行ったよね。 そ…
うーん、お題だけ与えてAIにお話し考えてもらったの?っていうくらい意味不明。 なぜ当主である兄に婚約者はおらず、弟の婚約者というだけの立場の主人公があれこれ他家の内政について采配する必要があるんだろう…
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