第12話 正しく呼ばれる名
私が整えた茶会は、誰一人欠けることなく、和やかに進んでいた。
フェルゼン家の家政顧問として迎えられて、半年が過ぎた。最初の数か月は、乱れに乱れた記録の整理に追われた。贈った品、贈っていない品、日付の合わない贈り物。一つずつ照らして、本来あるべき形に戻していった。私の控えの帳簿が、ここでも役に立った。捨てられない性分も、たまには使い道がある。
整えてみれば、フェルゼン家の社交は、もとは決して悪い家ではなかった。ただ、采配する人間が、長いあいだ、面倒事を気分で動かしていただけだ。記録を正し、贈答の格を整え、席順に筋を通す。当たり前のことを、当たり前にやる。それだけで、傾きかけた家の評判は、ゆっくりと持ち直していった。
今日の茶会も、その持ち直しの、一つの証だった。
招待した家は、一つも欠けなかった。一度は距離を置きかけていた家も、こうして再び足を運んでくれている。庭の卓には、温かい紅茶が、温かいうちに運ばれていく。給仕の手際も、私が来てから、ずいぶん変わった。あの、いつも目を伏せていた侍女は、今は顔を上げて、てきぱきと客を捌いている。彼女に、客のもてなしの段取りを任せたのは私だ。見ている人間は、任せれば応える。半年前のこの家は、見ている人間に、何も任せなかっただけだ。
「フィオナ様」
通りすがりの夫人が、私に声をかけた。
「今日のお席の按配、見事ですこと。どの家も、立てるべきところを立てていらして」
「もったいないお言葉です」
私は会釈を返した。今度の「もったいないお言葉」には、もう、感情を均す必要がなかった。労われることに、すっかり慣れた、というわけではない。けれど、自分の采配を、自分の采配として褒められることに、私はようやく、素直に頷けるようになっていた。
フィオナ様。
その呼ばれ方が、今は、当たり前に耳に届く。半年前、あの家で、私は名前を持たない空気だった。婚約者でありながら、隣の席は別の人のもので、贈り物の宛名は素通りされ、面倒事の宛名だけが、いつも正確に届いた。誰も、私の名を、きちんと呼ばなかった。
今は、違う。
使用人は私を「フィオナ様」と呼ぶ。夫人たちは、私の采配を、私のものとして見る。誰も、私を空気とは思わない。たったそれだけのことが、こんなにも、足元を確かにする。
茶会が終わりに近づいた頃、クリストフ様が、庭の隅で私を待っていた。
このごろ、二人で話すことが増えた。家政の打ち合わせのためだ、と、初めのうちは自分に言い聞かせていた。けれど、打ち合わせにしては、最近の会話は、ずいぶん仕事から逸れることが多い。今日読んだ本のこと。庭の薔薇のこと。子どもの頃に通った菓子屋のこと。仕事の話で始まって、いつのまにか、そうでない話になっている。
「茶会は、うまくいったようだな」
「ええ。おかげさまで」
「いや。あなたのおかげだ」
クリストフ様は、即座に訂正した。この人は、いつもそうだ。手柄を、正しい持ち主に返す。私が紙を揃えるみたいに、几帳面に。
庭の卓に、紅茶が二つ、並べられていた。一つは私の、もう一つはクリストフ様の。湯気が、二筋、立っている。誰が用意したのか、聞くまでもなかった。あの侍女だろう。彼女は、私の紅茶の温度を、よく気にかけてくれる。たぶん、最初に私の紅茶を温かいものに替えさせた人が、誰だったのかを、覚えているからだ。
「フィオナ嬢」
クリストフ様が、私を呼んだ。
仕事の打ち合わせのときは、私を顧問として、もう少し硬い呼び方をする。けれど今は、フィオナ嬢、と呼んだ。少しだけ、距離の近い呼び方だった。私は、湯気の向こうの、この人の顔を見た。無駄を削ぎ落とした、いつもの顔。けれど、その顔が、今日は、ほんの少しだけ、いつもと違って見えた。
「一つ、頼みがある。これは、顧問への依頼ではない」
「……といいますと」
「私個人の、頼みだ」
クリストフ様は、そこで、少し言葉に詰まった。無駄を削ぐこの人が、言葉に詰まるのを、私は初めて見た。いつも一行ずつ詰めて作る書面のように、淀みなく話す人が、今は、次の一行を、慎重に選んでいた。
「あなたを、顧問としてではなく、隣に迎えたい」
庭が、静かになった。
「役割ではない。家政のためでもない。あなたという人間を、一人の人として、隣に望んでいる。あなたが整える采配ではなく、あなた自身を」
私は、すぐには答えられなかった。
答えられなかったのは、迷ったからではない。言葉が、喉のあたりで、少しだけつかえたからだ。半年前、喉につかえていたのは、吐き出せない我慢だった。けれど今、つかえているのは、それとは正反対の何かだった。
この人は、私を物として扱わない。それは、もう、半年前から知っていた。書面で示された、確かな信頼。けれど今、この人が差し出しているのは、書面に書ける類のものではなかった。立場でも、権限でも、報酬でもない。もっと曖昧で、もっと頼りなくて、けれど、もっと温かいもの。
——温かい、という言葉を、私は、今度は、否定しなかった。
「クリストフ様」
私は、声を整えてから、言った。
「私は、もう、誰かの隣で、空気になるのは、ごめんです」
クリストフ様の眉が、わずかに動いた。私が断ろうとしている、と思ったのかもしれない。私は、続けた。
「けれど、あなたの隣でなら、私は、空気にはならない気がします。あなたは、私の采配を、私のものとして見てくれた。私の紅茶の温度を、見ていてくれた。私が断ったことを、迂回しなかった。あなたは、いつも、私の名前を、きちんと呼んでくれます」
これは、求愛の言葉としては、ずいぶん色気のない言い方だった。紅茶の温度だの、采配だの、名前の呼び方だの。けれど、私にとっては、これ以上に確かな理由は、なかった。ときめき、というものが、どういうものかは、よく分からない。けれど、この人とは、話が通じる。私の沈黙の意味を、この人は拾う。それで、十分だった。十分すぎるくらいだった。
「お受けします」
私が言うと、クリストフ様は、ほんの一瞬、ほっとした顔をした。それから、いつもの、無駄を削ぎ落とした顔に戻ろうとして——戻りきれずに、口元が、確かに緩んだ。今度こそ、笑った、と言っていい顔だった。
「では、改めて。あなたに、贈りたいものがある」
クリストフ様は、懐から、小さな箱を取り出した。
私は、身構えた。箱、というものに、私は少しだけ、苦い記憶がある。淡い青のリボンの記憶だ。けれど、その箱には、リボンはなかった。クリストフ様は、蓋を開けて、それを、私の前に差し出した。
「これは、あなたに贈るものだ。あなた以外の、誰の指にも、はめさせない」
中には、指輪が一つ。けれど、私の手のひらの上のあれとも、ローラの指にあったあれとも、違う指輪だった。新しく、私のために選ばれた品だった。素っ気ないほど、飾りの少ない指輪。けれど、その素っ気なさが、この人らしくて、私は、少しだけ笑いそうになった。
今度は、堪えなかった。
「いただきます」
私は、その指輪を、受け取った。右手で。左手の薬指には、まだ、母の形見がはまっていたからだ。クリストフ様は、それを見て、何も言わなかった。母の形見を外して、と言わない人なのだと、改めて思った。この人は、私の大切なものを、自分のもので上書きしようとはしない。隣に、置く。二つの指輪が、私の両手で、それぞれの場所で、静かに光った。
「フィオナ嬢」
「はい」
「いや。これからは、嬢、ではないか」
クリストフ様が、少し考えるように言った。私は、笑った。
「まだ、しばらくは、フィオナ嬢でけっこうです。手続きには、時間がかかりますから」
「そうだな」
私たちは、湯気の立つ紅茶を、それぞれ手に取った。温かいうちに。
私の名は、今、正しく呼ばれている。
それだけのことが、こんなにも、温かい。
半年前、あの冷めた紅茶の席で、私は、名前を持たない空気だった。けれど、私は、その席を降りた。怒鳴りもせず、泣きもせず、ただ、これ以上は無理だと、立ち上がった。痺れた足で、よろけながら。
その一歩が、ここまで連れてきた。
母が遺した指輪の内側の、あの言葉。子どもの頃、読めるようになるより先に、形だけを覚えた、あの言葉。
縁を、大切に。
母さん。私は今、やっと、その意味を、正しく受け取れた気がします。
紅茶は、まだ、温かかった。




