第7話 明日の正午までに、祝福は取り消せますか
明日の正午までに、祝福は取り消せますか。
白百合神殿の小審問室で、エレナ・リース伯爵令嬢は、そう尋ねられました。17歳にもならない少女の手は、膝の上で強く握られております。指先が白い。泣きたい時ほど、泣かない人の手でございました。
窓の硝子は朝靄で曇り、白百合香油の匂いだけが、いつもより濃く立ち上っている。長机の端には砂時計。砂は、ひと粒ひと粒、机の影へ落ちていきます。
「あと2時間58分です」
砂時計を覗き込み、補助神官のイザーク様が青い顔で呟かれました。誰も聞いておられぬと思われたのでしょう。けれど、全員、聞いておりました。マルタ書記官の羽ペンが、その時刻を欄の隅へ静かに刻む。
「取り消せますわ」
私は答えました。
エレナ様の瞳が、わずかに揺れる。赤茶の髪の下で、頬の血の気が薄く戻ってまいりました。
「ただし、正午までに祝福が正式に成立していないことを、照会できれば、でございます」
長机の向こうから、リース伯爵家の代理人――黒い詰襟の中年紳士が、鼻で短く笑いました。
「祝福は神の御意志です。時刻や署名で取り消せるものではありません」
「あら」
私は扇子を半分だけ開きました。
「いま、祝福と仰いましたわね」
マルタ書記官の羽ペンが、机の隅で走り出します。インクが紙へ染みる音、それだけで部屋の温度が一段、下がりました。
アルベリク神官長様は、私の左隣に立っておられます。今日は正面ではなく、隣。それだけで、空気の重さが違って感じられました。紺青の肩布の縁を、親指でなぞる癖は変わりません。けれど指の向きは、私の方へ寄っておりました。
「神殿法第21条」
神官長様の声は低く、祈祷のように淡い。
「神の御意志と公的に主張なさるなら、婚約祝福照会権が発生します。また第34条により、祝福の受領時刻、署名者、立会人、紙の管理番号を提示する義務がございます。代理人殿、お続けを」
「そのような細かいことを」
「細かいことではございませんわ」
私は、エレナ様の震える手から目を逸らさずに申しました。
「神の名で人の人生を縛るのなら、紙の端まで責任をお持ちなさいませ。『細かい』と仰る方ほど、ご自分の足元にある紙の管理番号には、お気づきにならぬものでございますわね」
代理人の爪の根元が、白く濁っていく。隠しきれぬ動揺が、礼装の襟元の汗として、まず首筋へ滲み始めました。
◇
午前11時。紙庫前の石廊下は、朝より一段、冷えておりました。
マルタ書記官が管理番号台帳を抱えて立ち、イザーク様は片手に半券を、もう片手に予備の砂時計を握っております。眼鏡を3度、4度と拭き、それでも曇ったまま。怖がるほど、眼鏡は曇るらしい。けれど、白い半券を私へ差し出す指は、震えながらも、まっすぐでございました。
「公爵令嬢、エレナ様の証明書管理番号と、こちらの半券が一致いたします」
「では、祝福成立日時の前に発行された半券、ですわね」
「は、はい。発行は3日前。祝福と称する儀式は、本日午後の予定でございました」
つまり、紙は本物。けれど祝福は、まだ神には渡っていない。
私は台帳の頁を1枚、指で押さえました。剥がして、貼り直された痕。糊の色だけが、不自然なほど新しい。
「マルタ様」
「承知しております。剥離痕、記録いたします」
羽ペンの音が一度だけ止まり、また走り出す。書記官の目は、エレナ様のためだけに、欄の余白を少しだけ広く取っておりました。
◇
正午まで、あと20分。
審問室へ戻ると、代理人は立ち上がっておりました。汗は首筋から襟へ、襟から袖口へ、見えない雨のように下りていく。
「神に逆らうおつもりか」
最後の脅しでございます。神の名は、こういう時にもっとも大きく振りかざされる。
私は照会状の控えを長机に置きました。封蝋の朱色が、白い天板の上で、滴のように静かに残ります。
「神に逆らってなどおりませんわ」
扇子を、ゆっくりと閉じました。今日は、自分を守るためではない。エレナ様の前に立つためでございます。
「ただ、神の名を語る方の、紙と署名と時刻を、確認しているだけ」
マルタ書記官が照会成立の朱印を押し、イザーク様が震える手で、署名欄へ自分の名を書き込みました。半券と証明書の番号が一致し、祝福成立前の取消が、第21条に基づき正式に受理される。
正午の鐘が、鳴り渡りました。
エレナ様が、声を上げて泣かれました。少女の涙が、白百合紙の上に1滴、落ちる。けれどその紙はもう、彼女を縛る縄ではございません。
神の名で黙らされた者が、次に口を開く時まで、記録は残るのでございます。
◇
神殿中庭。白百合は午後の光に少しだけ傾き、花弁の縁が透けておりました。
「公爵令嬢」
アルベリク神官長様が、白い任命書の束を、私の前へ差し出されました。1枚目には、私を臨時正式照会補佐官と任ずる文。2枚目には、その試験合格を認める文。
「貴女様の照会は、人を救いました」
それだけ。職務の言葉でございます。けれど、肩布の縁をなぞる指が、いつもより、長くそこに留まっておりました。
私は任命書を受け取り、ふと、束の間に紛れた1枚へ目を留めました。
黒い封筒。
宛名はなく、白百合印もない。けれど封蝋の花は、花弁の先が、まるで煤を吸ったように黒く潰れている。
「神官長様」
「……はい」
「これは、どなたが、私の任命書に紛れさせたのでしょう」
白百合の花弁が、風に揺れました。
午後の光が、急に冷たく感じられたのは、きっと私の気のせいでございますわね。




