第8話 聖女様と呼ばれる令嬢、寄付箱を隠す
白百合祭の朝は、香油の匂いから始まりました。
神殿本殿前の広場は、午前10時にはすでに人で埋まっております。市の人々、商家の奥様方、下位貴族の令嬢方——それぞれ白い飾り花を手に、初夏の光の下に集まっておられた。石柱には白百合の花冠が掛けられ、風が吹くたびに甘い香りが波のように流れてくる。
任命書を受け取った翌朝。
昨夜の黒い封筒のことは、帳面の端にひと行だけ書き留めて参りました。
「補佐官殿」
隣から、低い声が届きました。
アルベリク神官長様は今日、祭礼の礼装をお召しです。白い袖口に日差しが落ちて、紺青の肩布が朝の光を少しだけ吸い込んでいる。金色の瞳は、広場の人波を見ておりました——私の方ではなく。
「本日は補佐として、祝福証明書の受付確認をお願いいたします。申請書には必ず私の副印が必要です。順序を確かめておいてください」
職務の指示。隙のない言葉。
「承知いたしました」
私は控えの帳面を開き、日付と時刻を書き込みました。
——その時。広場の中央から、拍手が起こりました。
白いヴェールを纏った令嬢が、神殿の石段を降りてくる。淡い金髪をヴェールで覆い、胸元に白百合の刺繍。歩くたびにヴェールの端が揺れ、傾く光の中で清らかに輝いておりました。
セレスティナ・ローゼ侯爵令嬢でいらっしゃいます。
拍手が広場全体に広がる。隣の伯爵夫人方が目元を押さえながら囁き合っておられた。「美しいわ」「本物の聖女様みたい」——その声が、香油の甘さに溶けていく。
セレスティナ様は石段の下で立ち止まり、振り返りました。
孤児院の子どもたちが、白い晴れ着を着て石段を降りてきます。小さな手に、白百合の花束。
その中の一人が、目を引きました。
痩せた手首。少し裂けた袖口。急いで結ばれた髪の、後れ毛がほつれている。大きすぎる晴れ着の裾を踏まないように、気をつけながら降りてくる。
その子は、泣いておりました。
けれど、泣き方が——違う。
口を閉じ、下唇を噛み、袖口を両手で握りしめながら泣いている。感激で泣く子の顔ではございません。
私の扇子を持つ指が、一拍だけ、止まりました。
セレスティナ様の甘い声が広場に流れます。
「皆様のお志が、この子たちを救います」
人々が寄付箱へ次々とコインを投じる。銀貨の音が積み上がっていく。
ふと、祭壇の右脇を見ました。白百合の絵が描かれた大きな木箱が、そこに置かれている。
セレスティナ様の侍女が、箱の端へそっと手を添えました。
寄付箱が、祭壇脇から後ろへ動く。馬車の方へ、ゆっくりと。
私は帳面の頁を、1枚めくりました。
午後に入ると、広場の熱は引き、白百合の花冠だけが石柱に揺れておりました。
神殿回廊の石は冷えていて、白百合香油の匂いが廊下の奥から届いている。私とイザーク様は、祝福証明書の受付棚の前に並んで立っておりました。イザーク様の眼鏡が廊下の薄暗さに曇り、2度、3度と拭かれている。
「こちらです」
書類の束を差し出す指が、震えてはおりません。怖がっても、証書を出す手だけは真っすぐなのが、この方の性格でございます。
「セレスティナ・ローゼ侯爵令嬢名義の祝福証明書申請、1件。受付時刻は午前9時13分。受付官の副印は——」
イザーク様の声が止まりました。
「……薄いですね」
私は申請書を受け取り、回廊の細窓へ近づきました。午後の光に透かすと、白百合印の輪郭が、右上だけ潰れています。花弁の先が、煤を吸ったように滲んでいる。
紙を押さえた指の下から、香りが来ました。
神殿の香油とは、違う甘さ。外来の、どこかで嗅いだことのある香り。
「封筒を保管していただけますか、イザーク様。黒百合封蝋の痕が残っております。写し取る前に触れてはなりません」
「黒……百合……」
イザーク様が封筒の端を覗き込み、眼鏡が少し傾きました。
「これは……花弁が、黒いのですが」
「本日、最も重要な証拠品でございますわ」
「私は囮役ではないはずなのですが、なぜいつも——」
「石廊下の光の当たらぬ棚へ、お願いいたします」
「……承知しました」
震える手で封筒を受け取り、イザーク様が廊下の奥へ遠ざかっていきました。外来の香りが、石廊下に少しだけ残ります。
神殿の香油とは、違う。誰かが外から持ち込んだ香り。
孤児院礼拝堂の前には、白百合の花弁がいくつか落ちておりました。
夕刻の光は斜めで、石段を橙色に照らしています。鳥が一声。石段の端に、晴れ着の裾を両手で握った子が、小さく縮こまっておりました。
昼間の、あの子です。
「泣いてません」
私が近づくと、その子が先に言いました。袖口を握る手が、さらに強くなる。黒い目が地面へ落ちている。
「ええ、存じておりますわ」
私は石段の下に立ちました。しゃがんだ方が目線が合います。白手袋が汚れても、今日はかまいません。
「お名前を、聞かせていただけますか」
「……リラ」
「リラさん。昼間、白百合のお花を配っていらした方ですわね」
リラは俯いたまま頷きました。後れ毛が頬へ落ちる。
袖口を見ました。
裂けた縫い目の内側に——白百合の花粉が、黄色く入り込んでいる。
祭壇を取り巻く外周の花には、花弁しか届きません。花粉がつくのは、祭壇の内側、花の根元に近い場所へ入った者だけです。
私の扇子を持つ指が、止まりました。
「リラさん」
声を低く、静かに出しました。
「祭壇の内側へ入りましたね」
リラの肩が、少し動きました。
「寄付箱の近くへ」
袖口を握る指の節が、白くなっていく。
「……泣くと、寄付が増えるって」
小さな声でした。けれど聞こえた。聞こえてしまいました。
「——言われたのですね」
リラは答えません。頷きもしません。
私は扇子を持ったまま、ひとつ息を吸いました。礼拝堂前の夕刻の空気が、肺の奥まで冷たく入ってくる。
「その涙を、感激として数える前に」
私は言いました。
「理由を、伺いましょう」
リラが顔を上げました。濡れた黒い目が、橙色の光の中で、まっすぐこちらを見ている。
「寄付箱……」
「はい」
「馬車に——」
その時。礼拝堂の扉が、内側から静かに開きました。
アルベリク神官長様でした。紺青の肩布の白い袖口に、白百合の花粉が少しついておられます。金色の瞳が、私ではなく、まずリラへ向けられました。
それから、ほんの一息おいて、私の方へ。
「リラを、証人保護下に置く許可を申請します」
職務の言葉です。
けれど神官長様の指は、肩布の縁を、いつもより少し強くなぞっておりました。
◇
白百合の花弁は、夕刻の風に半分だけ閉じておりました。
私は帳面へ今日の記録を書き足しながら、冷えた空気の中で扇子を静かに開きました。
封蝋は黒百合。花粉の位置は祭壇の内側。寄付箱は馬車の中。
リラはまだ、言いかけた言葉の続きを持っております。
明日の正午までに祝福証明書の照会を成立させなければ、聖女候補認定は粛々と進んでいく。
証人保護下に置いた子の証言は、明日の朝、正式に記録へ残せます。ただし——
「神官長様」
私は帳面を閉じました。
「祝福証明書の受付時刻と、寄付箱の移動時刻を、明朝一番に照会申請してよろしいでしょうか」
アルベリク神官長様は、少しの間、口を開かれませんでした。
肩布の縁をなぞる指が、夕刻の光の中で、止まっている。
「——はい」
それだけでございました。
白百合の香りが、礼拝堂の前に薄く残っています。
馬車の行き先はまだ分かりません。黒百合の封蝋の出所も、まだ分かりません。
けれど寄付箱は、祈りより先に馬車へ乗せられた。
それは、明日の照会で、正式に証明されます。




