第6話 その白百合紙は、どこから来たのですか
偽物の証明書が、本物の白百合紙で作られておりました。
神殿紙庫の冷たい石床。午後の光が天窓から細く落ち、白い紙の山に薄い影を落としております。空気は乾き、香油よりも墨の匂いが強うございました。
マルタ書記官が銀粉を振りかけた瞬間、紙の中央へ薄い百合の透かしが浮かぶ。イザーク様が小さく悲鳴を上げ、眼鏡の縁を強く握りました。私の半歩後ろで、アルベリク神官長様の喉が、わずかに動く。
「……本物です」
イザーク様の声が震えました。
「白百合紙は、本殿紙庫から出ません。出ない、はずなのです」
「はず、ですか」
私が問い返すと、彼の眼鏡が一気に曇る。危険が大きいほど、彼は眼鏡を拭き始める癖がございます。今日、その手は止まりません。
紙庫管理官は壁際で腕を組み、痩せた頬をこちらへ向けておられました。年若い公爵令嬢が紙庫へ立ち入っていること自体、彼にとっては不敬なのでしょう。
「公爵令嬢。神殿紙の管理は神殿内部の問題でございます。外部の方が口を挟むことでは」
「ええ」
私はゆっくりと扇子を半分だけ開きました。
「ですから、外部の者として正式に照会いたします」
封蝋済みの控えを机へ置くと、紙庫の空気が一段冷えた。神殿では、怒鳴り声よりも紙の方が強い時がございます。封蝋があり、署名欄があり、日付が正しい紙。人の感情は否定できても、紙は無視しづらい。
管理番号の欄を、私はそっと指で押さえました。
「マルタ様、ここの数字は」
「削られております」
「削られているのに、白百合紙であることは分かるのですね」
「紙そのものが本物ですから」
なんて嫌な答えでしょう。
偽物なら、裁けばよかった。けれど本物の紙に、偽物の祝福が書かれている。それは神殿の外に嘘つきがいるという話では済みません。神殿の内側に、嘘へ紙を渡した者がいるということです。
「マルタ。イザーク」
神官長様が、低く呼ばれました。声が、いつもより半音だけ低い。
「ここから先は、私が付き添います。議事録は閉じてください」
マルタ書記官の羽ペンが、ぴたりと止まる。彼女は私を1度だけ見て、無言で羽ペンを垂直に置かれました。反対しておられるのです。けれど、神官長権限には沈黙で従うしかない。
封印棚の前まで、私は神官長様と二2人で歩きました。鉄格子と銀の鍵が並ぶ場所。床の冷気が、薄菫の手袋を通して指先まで上ってくる。神官長様の親指が、肩布の縁を1度だけなぞる。銀粉インクの跡が、いつもより濃い。今朝、何度も何かに署名なさった指です。
「公爵令嬢」
「はい」
「ここから先は、神殿内部の問題でございます」
私を退ける声ではございませんでした。私を退けてしまう、自分のための声でした。
「神官長様」
私は神官長様の指先から目を上げました。
「神殿の内側から出た紙なら、神殿の内側へ照会するだけですわ」
その瞬間、神官長様の白い祭服の下で、呼吸が一拍だけ止まる気配がいたしました。表情は崩れない。けれど、肩布をなぞる親指が、ぴたりと動かなくなった。
「貴女様を、危ない場所へ連れて参りたくないのです」
「では、安全な場所だけを見ていればよろしいの?」
私は扇子を、ゆっくりと閉じました。
「私は、もう、安全な場所にいる女ではございませんわ」
書記官室の灯りは、神殿の中で唯一、いつでも黄色うございます。蝋燭ではなく、菜種油の小さな燭台。マルタ書記官が机の正面を私のために空け、自分は隣の椅子に腰を下ろされました。きつくまとめた髪、袖口にインク染みひとつない袖。羽ペンを再び垂直に置く。
「補佐官候補として、ひとつ申し上げます」
声は、いつものように平坦でした。
「神殿内部を疑う申立人は、補佐官に不適格と見なされる可能性がございます」
「神殿の腐敗を見ぬふりをする者の方が、不適格ではございません?」
「私情で疑う者と、記録で疑う者は、別でございます」
マルタ書記官が、白い小冊子を私の方へ滑らせる。神殿法。表紙の角が指でなめされ、丸くなっておりました。
「公爵令嬢。疑うなら、記録できる疑いになさいませ」
「記録できる、疑い」
「箇条書きで結構です。何条に基づき、何の不一致を、誰の管理下で確認するのか」
私は薄菫の手袋の先で、頁を開きました。マルタ書記官の羽ペンが、私の手元へ静かに置かれる。指は、いつの間にか勝手に番号を振り始めておりました。1、2、3、4。
マルタ書記官は、私の指の数だけ羽ペンの先を整えてくださる。途中、第12条の次の頁にだけ、彼女の視線が一瞬とまった気がいたしました。けれど何も仰らない。沈黙の中に、初めて少しだけ、私を候補として扱う温度がある。
「明日の正午までに、初期照会を成立させなさい」
冷たい声でした。けれど、見捨てるものではございませんでした。
夜の神殿は、白百合の香よりも、雨上がりの石の匂いが強うございました。
石段は10段。私は6段目で立ち止まりました。月明かりが薄く差し、白い祭服の影は、まだ階段の上に残っております。神官長様は私を見送るために立ち止まり、けれど決して下りては来られない。距離を、自分で決めておられるのです。
その時、後ろから袖を掴まれました。
「公爵令嬢」
イザーク様でした。眼鏡の奥の目が、いつもより濡れている。震える指が、私の手の中へ小さな札を押し込みました。
「番号は、明日、合わせてください。けれど、ここで広げてはいけません」
「監視ですか」
「分かりません。ただ、今夜、紙庫の鍵が、規定の場所に戻っていなかったのです」
私は半券を握りしめました。裏返すと、薄い文字が浮かび上がる。
正午成立
階段の上で、白い影が、ようやく1歩、こちらへ下りる気配がいたしました。けれど、2段目で止まる。
明日の正午までに、誰かの婚約祝福が、本物の白百合紙の上で成立してしまう。
その祝福が誰のものなのかを、私はまだ、知らないのです。




