第5話 碧玉の腕輪は、もう王宮にない
碧玉の腕輪は、もう王宮にありませんでした。
王宮監査室は灰白の石壁に囲まれ、午前の光が高窓から細く落ちている。冷えた羊皮紙と、誰の口にも入らなかった紅茶の匂い。私の隣に父が立っておられました。腕は組まず、白い手袋の指先で目録の縁だけを押さえておいでです。怒りが声に出ない時ほど、父は装いの細部が完璧になられる。
目録の1行だけが、妙に白く空いておりました。削られたのではございません。最初からそこに何もなかったように、丁寧に空いている。こういう空白が、いちばん厄介でございます。
「監査官」
父の声は、低く短うございました。
「碧玉の腕輪は、王太子妃候補への儀礼貸与品であったはずだ」
「は、はい。ですが、今回の婚約破棄に伴う補償品目には」
「含まれていないのではない。目録から消えている」
監査官の喉が、上下しました。灰色の制服の襟元に、薄く汗が滲む。年配の方ですが、父の前では青白い少年のように見えます。
「貸与日は」
「午後2時、3年前でございます」
午後2時。
扇子の先が、膝の上でほんの1拍止まりました。私の婚約破棄が宣言された時刻と、同じ刻でございます。偶然か、それとも誰かの趣味の悪い符合か。
王太子殿下がミレーヌ様へお贈りになったのだろう、と最初は思いました。恋に浮かれた殿方が、王家の物と自分の物の境目を曖昧になさる。けれど、ミレーヌ様の押収品目録にも碧玉の腕輪はなかった。
腕輪は、恋の贈り物ではない。どこか別の場所へ、もっと静かに流された。
「ヴィオレッタ」
父が低く呼ばれました。怒りではない、恐れに近い声。私がまた家門のために自分の痛みを脇へ置くと、思っておいでなのです。
「ここから先は、家門の補償交渉では済まぬ」
「存じております」
目録の空白の上に、封蝋済みの照会控えを重ねました。
「恋の贈り物でしたら、まだ愚かで済みましたのに」
その時、扉が叩かれました。
入ってこられたのは、アルベリク神官長様でございました。薄暗い王宮の部屋に、純白の祭服が浮かび上がる。紺青の肩布の縁に、銀粉インクの跡が薄く残っている。神官長様はまず私ではなく、父に深く礼を取られた。礼の角度が、いつもより1拍長うございました。
「ハイゼンベルク公爵。父君の同席なしに、公爵令嬢を王家記録へ触れさせるわけにはまいりません」
冷たいお言葉でございました。扇子を握る指が、わずかに止まりました。
監査室を出て、王宮の廊下を歩きました。石床は冷え、高窓の向こうには白百合の中庭が、午前の光に小さく揺れている。神官長様は私の半歩前を歩きながら、視線は廊下の先に置いておられた。
「公爵令嬢」
「はい」
「神殿側でも、王家秘宝の流通照会は前例がございません。父君の正式同意があれば、神殿の記録権限を併用できます」
「私の照会だけでは、正当性が足りないと」
「足りるか足りないかではなく、汚されない形を選ぶのです」
廊下の半ばで、私は足を止めました。
神官長様の横顔は、いつものように静かです。金色の瞳は廊下の先を見たままで、こちらへは向けられない。けれど、肩布の縁を親指でなぞる仕草が、ほんの1拍だけ遅い。
この方は、私を遠ざけているのではない。私の照会が私情だと汚されない形を、ご自分の冷たさと引き換えに作っておいでなのです。
守られることと、信じて任されることは、時々とても似ていて、残酷に違う。
「ヴィオレッタ様」
背後から、別のお声がしました。
マルタ書記官が、議事録綴りを抱えて立っておられた。羽ペンの先がきちんと拭かれていて、目だけが私と神官長様の間を、行ったり来たりしている。
「ただいまの会話は、記録いたしますか」
「……どちらの欄に」
「私情欄か、職務欄かでございます」
神官長様が、ほんの1拍黙られました。肩布の指先は、止まらない。
私は扇子を半分だけ開いて、口元を隠しました。
「職務欄でお願いいたします」
「承知しました。本日の王家貸与記録の件は、父君の同意書式があれば神殿照会へ移送可能です」
マルタ書記官が1枚の書式を差し出した瞬間、私は気づいたのです。神殿は、私を孤独に進ませてはくれません。けれど、私を護衛してもくれない。彼らは、私が順序を守って進む者かどうかを、毎瞬、記録しているだけなのです。
ハイゼンベルク邸の書斎に戻ったのは、午後でございました。
暖炉に火は入っておらず、古い革装の本の匂いだけが部屋に満ちている。机の上に、父はすでに王家秘宝目録の写しと、ご自身が保管なさっていた王太子教育答案の控えを並べておられました。答案のうち1枚に、宝飾欄の項目が消されている。
「儀礼貸与品の確認問題だ。殿下は、最後まで1度も全問正答なさらなかった」
父の声は、書斎では低く湿っておりました。怒りではなく、自分の10年への悔いの音。
「お父様」
「家門ではなく、お前自身のために選べ」
扇子が、膝の上で静かに閉じました。
父の目は、王太子殿下に答案写しを突きつけた時より険しい。私がまた誰かのために自分を脇へ置くのを、許さぬという目でございました。
「お前が神殿に入れば、噂は悪化する。神官長は中立だ。神殿はお前の慰めの場所ではない」
「存じております」
「それでも行くのか」
書棚の隅から、古い封筒の縁が覗いておりました。薄黄ばんだ紙に、亡き母の名が細い字で記されている。父の指は、その封筒には触れない。触れぬまま、目録の写しだけを、私の方へ滑らせる。
「お前自身のために」
私は、答えませんでした。ただ、目録の空白の上に、もう1度、照会控えを重ねた。
神殿記録室の灯りは、夕方の橙色を含んでおりました。
白百合香油の匂いが薄く漂い、棚の影が長く伸びている。私の向かい側で、イザーク様が眼鏡を何度も拭いておられる。マルタ書記官は、紙問屋台帳の写しを羽ペンの先で追っていた。
「公爵令嬢」
マルタが声を立てました。羽ペンが、ある1点で止まる。
「黒い百合封筒の台帳にあった貸与照会番号と、本日王宮監査室で空白だった碧玉の腕輪の照会番号が、桁違いに一致しております」
イザーク様の指が、台帳の端で震えました。眼鏡を拭く指が、いつもより速い。
「ということは、腕輪は」
「恋の贈り物ではなく」
扇子を、閉じました。
「黒百合商会の、保証金でございますわね」
マルタが、紙問屋台帳の余白を読み上げる。番号の横に、細い字で短い注記が添えられていた。
「貸与照会番号、共通項目あり。注記、祝福証明書」
イザーク様の眼鏡が、少しだけ曇りました。
白百合香油の匂いが、急に冷たくなった気がいたします。
その白百合紙は、どこから来たのですか。




