第4話 黒百合商会とは、何者ですの?
噂は、記録より早く届きますのね。
翌朝、朝食室の銀盆に載せられていた社交新聞の社交欄には、私の名前が「神官長に事前手配をした令嬢」として、丁寧に飾られておりました。記事の飾り罫には、黒い百合に似た花が印刷されている。白百合ではございません。花弁の先が、煤を吸ったように、黒く潰れているあの形でございます。
「お父様」
紅茶に砂糖を入れず、新聞の端を、薄菫の手袋の指で押さえました。
「この記事をお書きになった方は、植物にあまりお詳しくないようですわね」
「そこではない」
父は、いつものように白手袋の指先を整えられた。怒っていらっしゃる時の仕草でございます。昨日、王太子殿下に答案写しの所持を告げられた、あの時と、ほとんど同じ静けさでした。
「ヴィオレッタ。今日は神殿へ参るのを、控えなさい」
「あら。昨日は、お前自身のために選べと、仰いましたのに」
「自分で選べと申した。火の中へ歩めとは、申しておらぬ」
父のお言葉は、請求書のように正確で、父親のように不器用でいらっしゃいました。
侍女のネラが、新しい紅茶をそっと置いてくれる。カップの縁が、小さく鳴りました。彼女も記事をお読みになったのでしょう。目元が赤い。私より彼女の方が傷ついておられるようで、少し困ってしまいます。
「お嬢様は、神官長様と、通じてなどおられません」
「ええ。正式照会状を通じてはおりましたけれど」
「お嬢様……!」
ネラが本気で泣きそうなお顔をしたので、私は扇子で口元を隠しました。冗談の使いどころを、少し間違えたかもしれません。
笑わなければ、社交新聞の黒い文字は、胸へ入り込んでしまう。昨日まで、私は王太子殿下に捨てられた令嬢でした。今日は、神官長様と王太子殿下を陥れた令嬢でございます。人は物語を欲しがるものですわね。事実よりも、悪意のある筋書きの方が、ずっと読みやすいのですもの。
紅茶を持つ手が、ほんの少しだけ、冷えました。口元の微笑だけは、整えたままで。
飾り罫に、指を添えました。
「お父様。黒百合商会とは、何者ですの?」
父の眉が、わずかに動かれた。
「商会と、決まったのか」
「まだ決まっておりません。ですが、噂を流す者は、紋様を残しました」
私は立ち上がり、神殿から届いた受付木札を、卓上から手に取りました。
神官長様は、私を遠ざけようとなさるでしょう。父も、止めようとなさるでしょう。社交界は、私の沈黙に勝手な台詞を重ねるでしょう。
だからこそ、参らねばなりませんの。
噂は、記録より早く届く。けれど、記録だけが、あとから噂を殺せるのです。
◇
白百合神殿の受付台では、木札が、なかなか発行されませんでした。
午前の高窓から差し込む光が、石床に長い四角を落としております。受付神官の机には、白百合香油の小瓶が1本。瓶の口元に、なぜか黒ずみが、薄く乗っておりました。受付神官は、私の照会控えを目の前で広げ、わざと長く眺めておられる。
「補佐官候補のご来殿は、上長の確認を要します」
「ええ。ですから、確認していただきたく、伺いましたの」
「ですが、本日は神官長様が、ご多忙でいらっしゃるため」
「神官長様にではなく、書記官にお願いいたしますわ。マルタ・ローヴェル様に」
扇子を半分だけ開きました。骨が、薄菫の手袋を通じて、指の腹を冷たく押し戻してまいります。屈辱は、扇子の骨で測ると、ちょうど5本分。
その時、廊下の奥から、黒い書記官服が、まっすぐ近づいてまいりました。
「公爵令嬢」
「マルタ様」
「本日のご来殿は、規則通り、私が承ります」
マルタ書記官は、受付神官の机に、規則の頁を、迷いなく開いて置かれた。羽ペンを垂直に立てたまま、私の照会控えへ向き直る。受付神官のお顔から、薄い赤みが、すうっと抜けていきました。
私は、もう1冊、鞄から付箋だらけの冊子を取り出しました。
「規則の細目で、ご不明な点がおありでしたら、こちらにございますわ」
受付神官の口が、半分、開いたまま、止まりました。
「神殿法小冊子を……お持ち歩きでいらっしゃいますの」
「公爵令嬢たるもの、紅茶と、扇子と、神殿法でございます」
マルタ書記官の羽ペンが、銀粉インクの先で、ほんの一拍だけ、止まりました。お記録なさるかどうか、迷っておられる、その一拍。
受付神官の机の上で、白百合香油の瓶の黒ずみが、私の目に、もう1度映りました。あの黒ずみ、温度の入った封蝋と、ずいぶんよく似た色合いでございます。
◇
午後の紙問屋。台帳保管室は、紙粉で空気が白く濁っておりました。
古い紙束が、天井近くまで積まれている。窓の外で、馬車の蹄が遠く鳴り、紙束の表に、細い影を流していきます。私は薄菫の手袋を、敢えて外しませんでした。手袋越しでなければ触れたくない埃が、ここには満ちております。
付き添いのイザーク様は、すでに2回、お眼鏡を拭かれた。怯えではなく、紙粉のせいでございます。多分。
「公爵令嬢様。あの、紙問屋の旦那が、神殿からの圧力だと、思い込んでおられるようで」
「そうですわね。ですから、私は神殿の名で参っておりません」
扇子を1度、閉じました。
「ハイゼンベルク家の名で、伺っておりますの」
紙問屋の主人は、白い髭の太い御方でした。卓の向こうから、私を見ていらした目が、ふっと険しくなる。
「公爵令嬢様。古紙の取引は、貴族の方々の照会する筋目では、ござりません」
「ええ。けれど、黒百合という言葉が、貴方様の台帳から、神殿の祈祷室まで届いておりますの」
主人の白い髭が、わずかに揺れました。
「黒百合は、商会の名では、ござりません」
「では」
「古い紙――特に、神殿で廃棄されたはずの神託紙、その横流し品を、業者の間で、そう呼ぶのでござります。花弁が黒い、というのは、要するに、表に出せぬ紙、という意味でして」
イザーク様が、息を呑まれました。
私は、扇子を膝の上で、半分だけ閉じました。
「では、黒い百合の封蝋を押された封筒は」
「あれは、商会名の押印ではござりません。仕入の符牒、運び役の隠語にござります……ただ」
主人の指が、台帳の頁を、めくり淀みました。
「ただ、その符牒で、最近、奇妙なお客が立て続けに参ったのは、確かでござります」
台帳の隅に、納入先の家紋が、いくつか並んでおりました。子爵家、男爵家、商家、それから――。
1行だけ、王宮御用達の印が、混じっておりました。
口元の微笑が、薄菫色の手袋の上で、ほんの少しだけ、止まりました。
黒百合は、人の名ではない。紙の流れの符牒でございます。けれど、その紙が、王宮の何処かにまで、流れている。
噂は、記録より早く届く。
ですが、紙は、噂よりも、ずっと深いところを流れておりますの。
◇
神殿の廊下に、夕日が差しておりました。
ステンドグラスを通った光が、石床に色硝子の模様を落としている。白百合の影は、もう、長く、廊下の奥まで届きませんでした。
神官長様は、紺青の肩布を整え、廊下の中央でお待ちでいらっしゃいました。マルタ書記官の姿は、ございません。けれど扉の向こうで、羽ペンの音が1つ、確かに鳴っております。
「公爵令嬢」
「神官長様」
「本日より、貴女様のご報告を、私の私室で承ることを、禁じます」
お声は、廊下の冷たさと同じ、温度でございました。長身を僅かに前傾なさったまま、神官長様は、私と目を合わせられない。
「報告は、書面か、審問記録室の長机で。私室にお招きすることは、本日付で、神殿規則上、不適当と判断いたしました」
「左様でございますか」
「噂は、貴女様の正式照会の信用を、削ります」
「ええ」
「私の役目は、貴女様の信用を、お守りすることでございます」
神官長様の親指が、肩布の縁を、わずかにお探しになる。けれど、なぞられませんでした。なぞる代わりに、布の縁を、ぐっと強く、握り込まれた。あの所作の意味は、よくよく見ねば、分かりませんもの。
扇子を、ゆっくりと閉じました。
「神官長様」
「はい」
「噂は、記録ではございません。けれど、記録より早く、人を殺しますわね」
神官長様のお声が、半音だけ、低くなりました。
「殺された方の名は、私が、記録に残します」
お顔は冷たいまま。お言葉は、職務のままでございました。
けれど、肩布を握り込まれた手だけが、廊下の冷たさよりも、明らかに、温こうございました。
扉が、お閉じになりました。
扉の向こうで、羽ペンが一拍、止まり、それから、いつもより遅い速さで、走り始めました。マルタ書記官は、ただいまの会話を、丁寧に書いておられる。
守られることと、信じて任されることは、時々とても似ていて、残酷に違うのです。
今、神官長様がなさったのは、そのどちらでもない、第3の所作でございました。私を遠ざけることで、私の名を、守ろうとなさる。優しさのおつもりでいらっしゃるのでしょう。
ですが、優しさで、噂は止まりません。
馬車寄せに戻ろうとして、足を止めました。神殿事務局の窓に、夕日に照らされた書類束が、3冊、並んでおります。表紙には、王家の赤い封蝋。寄付台帳でございます。
頁の隅に、見覚えのある花の影が、1つ。
花弁の先が、黒く潰れた、あの花。
扇子を、膝の上で、ゆっくりと閉じました。
黒百合は、商会の名ではない。紙の流れの符牒でございます。けれど、その紙は、王家の寄付台帳の隅にまで、流れている。
ならば。
王家の中で、いちばん早く、いちばん静かに、消えてしまったものは、なんですの。
明日の朝、私は、王宮監査室に、参らねばなりませんわね。




