第3話 私は囮役ではないはずでした
「私は囮役ではないはずでした」
補助神官イザーク・ベルクマン様は、審問室の椅子に座られるなり、辞令を3枚、机の上へ並べられました。
1枚目は神殿東棟補助業務。2枚目は祈祷室管理補佐。3枚目は臨時記録搬送係。どれも端が丁寧に揃えられ、何度も読み返された折り目がついております。けれど、どの辞令にも、確かに「囮」とは書かれておりませんでした。
白百合神殿・小審問室。高窓から差し込む朝光は薄く、長机の縁に白い帯を落としております。空気には、やはり白百合香油のかすかな甘さ。甘いというよりは、消毒に似た静けさ。アルベリク神官長様は壁際にお立ちになり、私の方ではなく、イザーク様の手元をご覧でございました。
マルタ書記官の羽ペンが、銀粉インクを含んだまま、紙の上で待機しておられる。
「なるほど」
私は、扇子を半分だけ開きました。
「では、ミレーヌ様から金貨300枚を受け取られた時、イザーク様はご自分を、何役だとお思いでしたの?」
「巻き込まれ役、でしょうか」
マルタ書記官の羽ペンが、ぴたりと止まりました。
「記録上、その役職は、存在いたしません」
「存じております……」
イザーク様は青ざめたお顔で、眼鏡を拭かれた。拭きすぎて、かえって曇っておられます。少しだけ気の毒で、少しだけ安堵いたしました。怯えている人間は、必ずしも嘘つきではございません。嘘つきは時に、もっと堂々としているものでございますもの。
昨日の白薔薇の間とは違い、ここには拍手も悲鳴もございません。あるのは羽ペンの音と、付箋だらけの神殿法小冊子が、机の角で時折かさりと鳴る音だけ。イザーク様の細い指は、震える木札を、膝の上で何度も握り直しておられました。
私は辞令を1枚、そっと指で押さえました。
「この署名をなさった方は、どなたですの?」
イザーク様の喉が、小さく鳴ります。
「神殿事務局の……いえ、その、私には直接お名前を申し上げる権限が」
「では、権限のない方に、金貨300枚を預けてもよいご権限は、イザーク様におありでしたの?」
その時。神官長様の親指が、紺青の肩布の縁を、すっと1度だけなぞられました。
ご覧になっておられたのですわね。辞令の署名欄が、少し擦れていることに。
乱暴に消されたのではございません。指の腹で何度もなぞって、繊維だけを擦り切らせた跡。第2話の朝、家名の欄が灰色に塗り潰されていた、あの羊皮紙と、ずいぶんよく似たお手つきでございました。
◇
午前の鐘が、廊下の向こうで遠く鳴りました。
「その封筒、私は1度だけ見ています」
イザーク様のお声が、ふいに低くなった。
羽ペンが、また止まる。
「黒い百合の、封蝋の押された封筒を」
私は、扇子の動きを止めました。
「いつ、どこで、どなたから」
「神殿東棟、祈祷室の前で。3か月前のことでございます。お渡しになったのは、外套の襟を高く立てた方でございました。フードの中に、淡金の髪が、ほんの少しだけ」
淡金の髪。
ミレーヌ様の巻き髪が、まず浮かびました。けれどイザーク様は、すぐに首を振られた。
「あの巻き方では、ございません。もっと短く、束ねた感じで――もうおひとり、別の方が、いらしたのです」
神官長様が、初めてイザーク様の方へ、お顔をきちんと向けられました。
「よく、お記憶でしたな」
短い、けれど、責めるお声ではありませんでした。
イザーク様の眼鏡の奥で、小さな眼が、ぱちりと瞬きをなさいました。
「い……いえ、その、私のような者でも、紙質と封蝋だけは、よく覚えるたちでして」
両手で、封筒の大きさをお示しになる。指の幅で、きちんと印を作られた。商会で使う厚手の蝋紙の寸法でございます。神殿で使う羊皮紙では、ありませんでした。マルタ書記官の羽ペンが、ようやく走り始める。羽の先が、紙の上で、急に勤勉になりました。
封筒の紙は、神殿紙ではなかった。
では、文言は神殿風で、紙だけが商会風。書く者と運ぶ者が、別の場所にいるのですわね。
「神官長様」
「はい」
「神殿の神託紙は、神殿の外には、出ないのでございましたわね」
「原則、左様にございます」
原則。今朝も、神官長様は、断定を避けられました。
◇
昼の鐘の少し前、私は中庭へ降りました。
秋の終わりの空気が、白百合の花弁を冷たく揺らしております。風にあおられた砂か、寄付箱の埃か、煤に似た黒い斑が、1輪の蕾の縁に、わずかに乗っておりました。
イザーク様が、後を追って下りてこられた。袖口にインクの染みを乗せたまま、両手を組み、背中を丸めて立っていらっしゃる。
「お顔色が、よろしゅうございませんわね」
「はい……」
「中庭にお出になれば、少しは、ましでございましょう」
「いえ……公爵令嬢様」
また眼鏡を拭こうとなさる。指先が震えて、布を取り落とされました。私はそれを拾い、お返しいたしました。
「補助神官ごとき、と仰る方が、神殿には、まだ、おられます」
お声は、独り言のように小さい。
「私が黙れば、囮役を勝手に引き受けたと、それで終わりです。それで、私は処分されずに済むかもしれません」
「ええ」
「でも、記録しなければ、怖かったことまで、なかったことにされますから」
その言葉で、私は扇子を閉じ損ねました。
骨が、薄菫色の手袋の上で、ぴたりと止まる。
昨日、私は順序で救われました。順序が、私のために間に合った。けれど、間に合わなかった人がいる。間に合わなかった人の祈りまで、誰かが、なかったことにしている。
「イザーク様」
「は、はい」
「ご証言は、私が、うかがいます」
イザーク様の目元が、ふいに赤くなられました。
「妹も、本当は――」
言いかけて、口を閉じられた。
代わりに、深く頭を下げられて、それきり何も仰らなかった。風が、また白百合の蕾を揺らします。煤の斑は、揺れても、落ちませんでした。
◇
神殿記録室の前で、神官長様が、私をお待ちでございました。
マルタ書記官が、長机に証拠の小箱を置かれている。封蝋は、白百合紋。けれど、蝋色がいつもより薄うございました。白に近いというより、灰に近い白。秋の曇り空のような濁り方でございます。
「公爵令嬢」
「はい」
「ここから先は、貴女様の名も、汚れます」
神官長様のお声は、廊下の冷たさと、同じ温度でございました。
「神殿は、ただいまの囮捜査を、補助神官の独断とする方向で動こうとしております。証人を守るということは、神殿の保身派を敵に回すことを、意味いたします」
「左様でございますか」
「貴女様を遠ざけることは、私のできる、いちばん簡単な仕事でございます」
肩布の縁から、神官長様の親指が、すっと離れました。
簡単、と仰られた。
いちばん簡単な道を、お選びにならない方が、わざわざ「簡単」とお口になさる。それが、いま神官長様のなさっていることでございました。
「神官長様」
「はい」
「いちばん簡単なお仕事を、私のためにご選択にならない理由を、ただいま、お記録なさっておられますか」
マルタ書記官の羽ペンが、止まりました。
神官長様は、お答えになりません。
お答えにならないということが、今朝もまた、お答えでございました。
私は、記録室の小箱に、薄菫色の手袋の指を伸ばしました。
灰色がかった封蝋が、ひやりと冷たい。神殿の白百合紋が、確かに押されておりますのに、蝋の地色だけが、規定の白から、ほんの少し外れております。
「神官長様」
「はい」
「この封蝋、近頃、温められましたわね」
神官長様の金色の瞳が、わずかに細くなられました。
1度開けて閉じ直された封蝋は、温度の入った跡で、地色が濁る。父の領地経営でも、よく嘆いておられたことでございました。
神官長様は、ようやく、低くお答えになりました。
「だからこそ、ここから先は、貴女様の名も汚れます」
お言葉は、最初と同じ。
けれど、お声の温度は、半音だけ、低くなっておりました。
黒い封筒は、商会から運ばれた。神殿の紙は、神殿の外へは、出ないはずでございました。
ならば、白百合紋の封蝋を、近頃、どなたが、お温めになりましたの。
黒百合商会とは、何者ですの。
まだ、その名が文字になる前に、扇子の骨が、私の手の中で、もう1度、冷たくなりました。




