第33話 夜明けまでに、改竄前の台帳を探す
台帳保管庫の扉が、マルタ書記官の手で内側から閉まりました。
灯火制限の時刻を過ぎた保管庫は、昼間とは別の生き物のようです。唯一の窓は外の闇を映すだけで、三方を棚に囲まれた石の部屋は燭台3本の橙色だけで成り立っています。紙と黴と白百合香油が溶け合った古い匂いが、息をするたびに肺の奥まで入り込んでくる。秋の冷気が石床から這い上がり、積まれた写しの縁を静かに反らせていました。
「灯火制限の規定上、これ以上は増やせません」
マルタ書記官が燭台を高く掲げ、棚の列を示しました。イザーク補助神官様は隣で神殿法小冊子を脇に抱え、壁際で必死に鼻を押さえておられます。薄茶の髪の先まで緊張している。
「無理はなさらず」
「だ、大丈夫です。埃に負けている場合ではありませんので」
次の瞬間、派手なくしゃみが石壁に響きました。棚の上の写しが数枚、橙色の空気の中をゆっくり舞い上がります。
「涙は記録いたしません」
マルタ書記官が真顔で言いました。イザーク様はさらに涙目になりました。夜の保管庫の緊張に、ほんの一拍だけ、生活の温度が混ざる。
今夜探すのは、第31話の調査で確認した写しではなく、改竄前台帳の原本です。写しに残った香油の目印が指した先——その台帳そのものは、まだ誰の手にも正式に確保されていない。
私は棚に沿って指を走らせました。台帳の背は古く、番号だけが押し印されています。第12列、第13列。その時、指先に滑りを感じました。油の感触です。白百合香油の、薄い跡。写しと同じ目印がここにも残っている。
「この台帳です」
取り出して開くと、頁の端に灰の粉がついていました。そして——1箇所だけ、灰の層の中で白く抜けた欠番。
写しで、確認しておりました。欠番の存在も、その隣の頭文字も。正式に照合照会も申請している。
それでも。
原本の紙を初めて指先で押さえた瞬間、言葉が、一拍だけ遅れました。写しで知っていることと、原本の紙の厚みを実際に手のひらで感じることは、全く違うことでした。
「あの……」
隣でイザーク様の声が、低くなりました。怖がっている時の声ではない。
「この欠番の隣に、似た番号が2列、並んでいます。同じ時期に消えた3つの番号です」
細い指が、頁の端を示しました。震えていない。こういう時だけ、この方は怯えません。
私はマルタ書記官と視線を合わせました。3つ。彼がその意味を知っているかどうかは、今夜は問いません。それは、また別の照会です。
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書記机での作業は、マルタ書記官の持ち場でした。
燭台を横に置くと、光が斜めに当たって頁の上の擦れが浮かびます。石机は冷えていて、指先でインクを確かめると夜の冷気が染み込んでいました。マルタ書記官は2枚の写しを並べ、小さな声で言いました。
「左手で書かれています」
「字形は正確に模倣されています。しかし、乾く前に頁を閉じる癖がある。右利きが左手で書く時、乾きを確かめる仕草を省きます。頁が重なった瞬間の擦れが、右利き特有の角度を残している」
「つまり」
「左利きに見せかけた、右利きの者です」
私は扇子の骨を1本、指の中で静かに押さえました。
「監査中に、監査の書記を装って文字を紛れ込ませる。念が入っておりますわね」
「該当者は、監査期間中の書記補佐に3人おります」
マルタ書記官が台帳を開き、3つの名前を指で示しました。その指が、最後の1行で止まる。
「うち1人は、今回の監査官補佐を務める者です」
燭台の炎が揺れました。窓のない部屋で、誰かの呼吸が空気を動かしました。
敵は今夜、この保管庫に届く距離にいる。
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原本台帳の照合を終えた後、アルベリク神官長様が保管庫へ入室されました。
マルタ書記官は書記机から離れず、羽ペンの音が届く距離に立っています。個別接触の禁則は、書記官が視認範囲内にいれば会話を妨げません。神官長様も、規則に沿った入り方をされておられました。
紺青の肩布が燭台の光を吸い、青灰色の髪に橙色が混ざっています。神官長様は棚の別の列を静かに確認され、1冊を引き出しかけて——止まりました。
手が止まった理由は、その台帳ではありませんでした。
神官長様の袖口の近くに、小さな輪郭が見えました。
灰の小瓶です。第28話から神官長様がお持ちのあの瓶。いつも肩布の陰に収まっていたのに、今夜は袖口の外に、ほんのわずかだけ、形が出ています。
今回は、隠さないのですね。
そう思った瞬間、神官長様の金色の瞳が、こちらを向きました。一度だけ。それだけでした。
私は扇子を開きませんでした。次に照会すべきことが、決まりました。
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夜明けの鐘が、遠くから届きました。
保管庫の窓から、空の色が藍から白へ変わり始めます。差し込む朝の光が石机を横から照らし、夜通し並べた台帳の頁の縁を細く縁取りました。
マルタ書記官が監査印を取り出し、原本台帳を正式証拠として封じる手順を整えます。
「完全な台帳ではありません」
私は声に出しました。
「けれど、完全に消せなかった台帳です。欠け方が整然としている。写しと原本の欠番が位置まで一致する。これは改竄の証拠です」
封蝋が蝋燭の熱で溶け、白い頁の上にゆっくり落ちました。
その時。
アルベリク神官長様が、石机の中央に、小さな瓶を置きました。
灰の小瓶。第28話から持ち続けておられたあの瓶。今夜初めて、机の上に、何も言わずに出ておられました。
封蝋が固まっていく間、誰も口を開きませんでした。夜明けの光が石机の上の2つの物——原本台帳と灰の瓶——を、橙色から白へ、ゆっくりと変えていきます。
「神官長様」
私は言いました。マルタ書記官の羽ペンが、1拍だけ静かに止まります。
「次の審問で、お聞きしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
短い返答でした。職務の形をしていましたが、声の奥の温度だけが、職務ではありませんでした。
封蝋が、完全に固まりました。夜明けの光の中で、灰の瓶の輪郭が、石机の白さに静かに溶けていく。
次の問いの名前は、もう決まっておりました。




