第34話 私にも、疑わせてください
「私は、貴女様を守るために黙ったのではない」
アルベリク神官長様の声は、審問室の白い壁に静かに落ちました。
灰の小瓶は、机の中央に置かれております。第28話で神官長様の袖口から落ちた、あの小瓶。封印日は空白。中には、改竄前台帳の焼け残りと、白百合香油、そして黒百合粉が混ざっていた。
監査官クラウス様は黒革の監査帳を開き、銀縁眼鏡の奥で神官長様を見据えておられます。
「では、なぜ正式証拠として提出しなかったのです」
「提出経路が汚染されていたためです」
「証明は」
「これより行います」
神官長様の答えは、どこまでも職務の形をしておりました。けれど、私はその奥にある別のものを聞いてしまう。
痛みです。
この方は、痛みを祈祷文の形に整えてしまう。
「神官長様」
私は扇子を閉じました。音が、思ったより大きく響く。
「私からも、確認してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「貴方様が灰を別封したのは、私が見れば動揺するとお考えになったからですか」
マルタ書記官の羽ペンが一瞬止まりました。今の問いは、手続きの形をしているけれど、半分は私情です。いえ、私情に触れない手続きなど、この件にはもう残っていないのかもしれません。
神官長様は、私を見ました。
「いいえ」
短い否定。
それだけで、胸の奥に刺さっていたものが少しだけ動きました。
「貴女様が正式照会できる時まで、証拠を殺させないために黙りました」
守るためではない。
戦えるように残すため。
言葉の差は、紙の上では小さい。けれど、私にとっては全く違うものでした。
「では、次からは」
私は息を整えました。
「私にも疑わせてください」
神官長様の金色の瞳が、初めて職務ではない温度を帯びた気がしました。
けれど、その温度が言葉になる前に、窓の外で雨の匂いが濃くなりました。
―――
クラウス監査官が、眼鏡を布で拭きました。いつもと同じ動作を、1拍だけ遅く。
「神官長。内容物の分析を、ただいまより正式に行います」
「承知いたしました」
アルベリク様が立ち上がり、灰の小瓶を両手で持ちました。石壁の冷気と白百合香油の残り香が混ざった朝の審問室で、神官長様は静かに蓋を外されました。清潔な白紙の上に、灰が少量広げられます。焦げた紙の欠片が8つ、白い粒が3つ、黒い粉末が薄く全体に混ざっている。
「焼け残りは改竄前台帳の紙質と一致します。白百合香油の固化物が3粒。そして」
神官長様の声が、1拍遅くなりました。
「黒百合乾燥粉が、混在しております」
マルタ書記官の羽ペンが走ります。
私は机上の灰を見ました。白百合香油は神殿の正式封印に使う素材です。黒百合乾燥粉は、偽装封印に使われた外部素材と同じ成分。この2つが同一の灰の中にある。意味は1つです。
「封印を開封し、再封印した時に生じる混合物です」
神官長様が、先に言葉を置きました。声に抑揚はない。けれど、膝の上に下ろした左手が、ひっそりと静止する。親指が、肩布の縁へ向かいかけて――途中で、止まりました。
「神殿内部の封印を、神殿外の素材を用いて再封した。その証拠が、正式に成立いたします」
クラウス監査官が眼鏡を拭く布を机に置きました。
「記録します。神殿内部協力者の介在を示す物的証拠、正式受理」
マルタ書記官の羽ペンが、止まりません。
壁際の若い神官の1人が、小さく息を吐きました。怒りではなく、長く止めていた呼吸を解いた音です。
神殿内部に、黒百合の協力者がいる。その疑義は、この部屋で今日、公式の記録になりました。記録は武器です。しかし今日初めて、記録は守るべき対象でもあると知りました。
手袋の縫い目を、指先で押さえます。
―――
廊下に出ると、秋の終わりの光が高い窓から斜めに落ちていました。
石の冷気が頬に当たります。遠くで若い神官が書状を抱えて歩く足音が、石畳を渡って消えていく。
クラウス監査官が隣に並びました。眼鏡を拭く布を上着の内側へ仕舞いながら。
「昨夜のうちに、神官長から申請が届いておりました」
監査帳から1枚の紙が取り出されました。
「欠番第312号照会の提出経路変更申請、正式受理済みです。書記系統への汚染を回避した経路に切り替わっております」
受け取りながら、私は廊下の先を見ました。離れたところに、アルベリク様の後ろ姿があります。白い祭服に紺青の肩布。書記官と低い声で何かを確認しておられます。背筋は真っすぐで、こちらを振り向かない。
「深夜の申請ですわね」
「はい」
「あら」
声は、思ったより穏やかに出ました。
「この方は、私が崩れた後でも照会を出せるよう、経路だけ先に固めておくのですね。中立にしては随分と先の読み方をなさいますこと」
クラウス監査官が眼鏡を取り出し、布で拭きかけました。布はもう仕舞ったはずです。それでも手が同じ動作をしかけて、途中で止まる。今日で初めて見た、その方の無意識の仕草でした。
「監査上、正しい判断です」
「ええ」
私も正しいと思います。私が動揺しないように先に整えたのではない。私が動揺した後でも、自分の手で照会を出せるように、道だけ先に清めておいた。
それは守ることではなく、信じることです。
廊下の先で、アルベリク様の肩布が窓からの光を受けて、雨前の重さで沈んでいました。雨の匂いが、少しだけ濃くなっています。
「次からは、疑わせてください」と申し上げました。あの方は言葉では返されなかった。その夜のうちに経路を固めることが、答えでした。言葉にならない形の答え。私が自分で照会できる形に整えた、沈黙の答え。
手袋の薬指の縫い目を押さえます。
―――
台帳保管庫の前で、マルタ書記官が待っていました。青インクで染まった指先で写しの縁を揃えながら、いつもの真顔で立っております。
「立会いの準備が整っております」
「承知いたしました」
私は扇子を指先で確かめました。閉じたまま。
夜通し探した台帳がある。焦げた頁の端に、母の旧姓の頭文字が残っている。あれを案件として読み上げる。それが今日の順序です。
分かっております。
分かっていることと、踏み込めることは、別ですわ。
「公爵令嬢」
マルタ書記官が羽ペンを垂直に立てました。
「続けられますか」
「……続けます」
扉を開きました。
薄暗い保管庫に、秋の朝の光が窓から斜めに差し込んでいます。紙の匂いと白百合香油の残り香が混ざった古い空気。夜通し並べた台帳の棚が、そのまま残っておりました。
アルベリク神官長様が、保管庫の奥に立っておられました。白い祭服、紺青の肩布。手には何も持っていない。ただ、台帳の棚の前に、静かに立っている。金の瞳が、私を一度だけ見ました。
その目の温度は、審問室で見たものとは、少し違いました。
問いではなく、待っている目でした。
「神官長様」
「はい」
「私が、読み上げます」
神官長様の左の親指が、肩布の縁へ動きました。今度は、止めませんでした。1度だけゆっくりとなぞって、それから自然に下へ戻る。
それだけのことでした。
私は台帳の棚へ向かいました。夜通し探した頁は、まだそこにあります。欠番の白い輪郭が、朝の光の中で待っております。
母の祈願番号を、今日、正式照会いたします。




