第32話 疑義は、神殿の内側を向きます
審問室の長机に、閲覧札が9枚、番号順に並べられておりました。
朝の光が高い石壁を斜めに割り、白漆喰の壁面に細い影の筋を引いています。暖炉に火はなく、秋の冷気が石の底から這い上がって、机上に積まれた写しの縁を静かに反らせていました。礼拝を終えたばかりの白百合香油の残り香が、どこか冷たく感じられる。
番号の末尾に、1枚分の空白がある。
それだけのことです。けれど、その空白の重さを、この部屋の全員が感じておりました。
「台帳上は、10枚全員返却済み。その認識でよろしいですか」
クラウス監査官が黒革の監査帳を開きました。痩せた長身に灰白の監査外套。銀縁眼鏡の奥から封印庫番の男を見据える目は、感情を抜いた計量の目です。
「は。規則に従い、返却確認印を台帳に押しておりますので」
「台帳に印を押した事実は、承知しております」
私は扇子を開かないまま、封印庫番の男を見ました。
「お聞きしたいのは、台帳に印が戻ったのか、札そのものが戻ったのか、ということですわ」
男の手が、箱の縁を強く掴みました。節くれだった指先が白くなる。規則に忠実すぎるからこそ、規則の外を疑わない種類の人です。責める気にはなれません。ただ、今ここでは正確に答えていただかなければなりません。
「……印がある以上、返却済みでございます」
「左様でございますか」
私は声を低くしました。
「台帳の記録がそれほど完全でございましたら、わたくしどもがここで照合する必要もございませんでしたのにね」
封印庫番の男は口を引き結びました。それが返答です。
壁際に並んだ若い神官の1人が、小さく息を呑みました。3人のうち左端の者です。顔色が変わったわけではありません。ただ、法衣の袖口を掴む指先が止まった。
「公爵令嬢」
クラウス監査官が監査帳を1頁めくります。動作は丁寧で、速度は変わらない。
「今の指摘は、台帳管理の問題として扱うべきですか。あるいは、神殿内部者の介在を示唆するものですか」
窓の外で、秋の鳥が1声鳴いて遠ざかっていきました。
私は扇子の骨を、手の中でゆっくり確かめました。今日は、開かない。隠してしまえば問いの温度が下がります。顔を見せて疑わなければならない。
「後者でございます」
「撤回の機会を与えます」
「撤回いたしません」
若い神官の誰かが、小さく息を荒げました。怒りか、恐れか。おそらく両方でしょう。
「神殿を守るために、神殿を疑います」
「黒百合商会は、禁書庫閲覧札の返却記録を操作しております。高位鍵がなくとも、返却印だけなら書記系統から触れます。白百合香油の残り香、灰色の封蝋、閲覧札の欠番、そして筆跡偽装。外部商会だけでは成立しません」
言葉を重ねるたびに、神殿の中の誰かを傷つけている感覚がありました。
神殿を守るために、神殿を疑う。
それは、思っていたよりずっと痛い行為です。
言いながら手袋の縫い目を、薬指の腹で1度だけ押さえました。誰も気づかないほど小さな動作。けれど指先は確かに、冷えていました。
私はアルベリク神官長様を見ませんでした。見てしまえば、問いが揺れるかもしれない。今この場で揺れるわけにはいきません。
「その発言は、神殿全体への疑義となります。撤回の機会を与えます」
「撤回いたしません」
マルタ書記官の羽ペンが、紙の上を走り始めました。音が、思ったより大きく響く。
その時。
「その疑義は、成立します」
アルベリク神官長様の声が、審問室の白い壁に静かに落ちました。
たった、1文。
それだけで、部屋の中の空気がさらに重くなりました。神官長が、神殿内部の汚染可能性を認めたのです。私ではない。この神殿を最も長く守ってきた方が、自らその言葉を発した。
私はようやく、神官長様を見ました。
青灰色の髪に、静かな金の瞳。白い祭服が審問室の白い壁に溶け込みそうで、紺青の肩布だけが重く沈んでいました。表情に乱れはありません。けれど、肩布の縁に向かいかけた左手の親指が、膝の上でひっそりと止まっておりました。金の瞳が、1度だけ静かに伏せられ、また開く。
この方は、痛みを職務語の形に整えてしまう。
神殿内部に、黒百合の協力者はいるのですか。
マルタ書記官の羽ペンが、止まらない。刻まれていく。
その問いは今、噂ではなく、正式な記録になりました。
◇
午後の白い中庭に出ると、秋の光が花壇に傾いていました。
白百合が整然と並び、礼拝の残り香が薄く漂っています。
後ろでイザーク様が何かに引っかかり、よろけた気配がしました。花壇の縁石でしょう。振り返ると、法衣の裾で白百合の花びらを1枚だけ踏んでいらっしゃいました。
「す、すみません……!」
「植物には謝らなくてよろしいのですよ」
私が言うと、イザーク様は神殿法小冊子を胸に抱え直しながら、「はい」と小さく答えました。踏まれた白百合の花びらが、石畳に白く散っている。
前方で、若い神官が3人、こちらを見て口を閉じました。視線が険しい。審問室の3人でしょう。
イザーク様が、半歩だけ前に出ました。私の少し前で。
私は扇子の先で、そっとイザーク様の袖に触れました。その1歩分は、受け取りました。でも今は、危険な先導よりも平静な顔が必要ですわ。
若い神官たちが離れていく背中を目で追いながら、踏まれた白百合の下を見ました。石畳の隙間に、黒い封蝋の欠片がひとかけら残っている。
白百合の下に、黒百合の蝋。
記録が先、と私は心の中で繰り返しました。
―――
「今夜が最後です」
廊下の突き当たりで、クラウス監査官が言いました。
午後の光が石壁を白く照らし、礼拝の香油の残り香が薄く漂っています。銀縁眼鏡を布で拭く手が、いつもと同じ速度で動いていました。
「台帳保管庫は、明朝の全面監査開始と同時に封鎖されます。封鎖後は私の署名なしに入室できません」
眼鏡の奥の目が、1度だけ私に向きました。温かみのない、しかし公正な目です。
「今夜中に根拠を揃えてください。入室許可は出します」
「承知いたしました」
クラウス監査官の乾いた足音が廊下を折れていきました。遠ざかり、消える。
礼拝の鐘が、遠くで1度だけ鳴りました。
隣でイザーク様が「……今夜、ですか」と呟きました。小さな声でしたが、逃げていない。
「ええ」
私は扇子を、指2本分だけ開きました。それ以上は開きませんでした。
夜明けまでに、改竄前の台帳を探さなければなりません。
欠番の横に、母の旧姓の頭文字が残っていました。今夜その欠番の隣を開く時、私は自分が照会官のままでいられるかどうか、まだ分かりません。
分からないことと、続けないことは別ですわ。




