第31話 神官長様の中立は、誰のためですか
神官長様との個別接触が、監査終了まで禁じられました。
通達は、黒革の監査帳に整った字で記されておりました。神官長アルベリク・ヴァインガルトナー、および正式照会補佐官ヴィオレッタ・ハイゼンベルクは、本件監査終了まで、書記官または監査官の同席なき会話を禁ずる。
文面は正しい。
だからこそ、少しだけ胸に刺さりました。
「公爵令嬢。ご異議は」
クラウス監査官が銀縁眼鏡の奥から私を見ます。冷たい目ではありません。けれど、甘さは一切ない。監査官としては、むしろ信頼できる冷たさです。
「ございません」
私が答えると、隣ではなく対面の席に座るアルベリク神官長様が、静かに目を伏せられました。
同じ机にいるのに、遠い。
禁書庫の鍵を差し出した時、この方は私を信じてくださっていると思いました。灰の小瓶を隠していた時、この方は私を信じていないのかもしれないと思いました。そして今、私はそのどちらでもない現実を見ております。信じているから、離れる。守るためではなく、私の照会を私情にしないために。
分かっております。
分かっていることと、痛まないことは別ですわ。
「今後の資料伝達は、マルタ書記官を通してください」
アルベリク様の声は、いつもより低い。職務の声でした。
「承知いたしました」
私も職務の声で返します。
「加えて」
クラウス監査官が監査帳を一頁めくりました。
「先日お預かりした灰封じの小瓶を、今日中に正式証拠として提出してください」
監査室の空気が、少しだけ変わりました。朝の光が石壁に斜めに差し込み、机上の写しの縁を細く照らしている。アルベリク様の視線が、一瞬だけ机の端で止まった。
「承知いたしました」
短い返答。職務の形をした返答でした。けれど肩布の縁に向かいかけた親指が、途中で静かに止まる。
「書記官同席必須となりましたので」
沈黙を破ったのは、マルタ書記官でした。羽ペンを真っすぐ立て、真顔のままです。
「私の退勤時刻も、中立性のため同様に保護されますでしょうか」
クラウス監査官が眼鏡を布で拭きました。丁寧に、同じ動作を2度。
「記録いたします」
それだけが返答でした。
ほんの少しだけ、場の空気が緩む。けれどアルベリク様の視線が机の上で静止したまま動かないのを見て、私は扇子を開きませんでした。今は、開くべき場面ではないと指先が判断しておりました。
―――
台帳保管庫は、監査室よりさらに奥にある部屋です。
窓は1枚だけ、差し込む光は朝のうちだけで今は薄暗い。棚が三方を覆い、古い台帳の背が整然と並んでいる。紙の匂いと白百合香油の残り香が混ざって、どちらとも言えない古い匂いがしました。アルベリク様はここには来ていらっしゃいません。これも中立性の問題です。
「この列が、改竄前台帳の写しです」
マルタ書記官が燭台を掲げました。青い光が、金具に反射する。
「第47札の件ですが、この台帳に欠番がございます」
「欠番」
「はい。消された番号の周囲だけ、灰がついておりません」
私はその写しを受け取りました。記録が消えた後には必ず痕跡が残ります。焼かれれば灰が。削られれば繊維が。水で薄められれば滲みが。けれどこの欠番には、何もない。清潔すぎて、かえって不自然です。
「補修中の棚に収められておりました。補修完了は3か月以上前でございます」
補修中の棚に収める。神殿内では最も合法的な目くらましですわ。手続きを知っている者にしか使えない隙間。そのことに最初に気づかれたのはおそらくアルベリク様お一人ですわね――そんな考えが過りましたが、今は口に出す必要はありません。
「欠番の登録日は」
「禁書庫封印の、3か月前でございます」
黒百合商会の台帳に最初の取引記録が現れたのと、ほぼ同じ時期。その事実は声に出さなくてもよい。マルタ書記官がすでに羽ペンを走らせています。
私は欠番の隣の余白を見ました。
頭文字が1つ、薄く残っています。灰で擦れてはいるけれど、確かに読める文字。
母の旧姓の、最初の一字と同じです。
息が、止まりました。
3年前、この番号を神殿の台帳室で半日かけて探しました。見つけられなかった日から、一度もその数字を忘れたことがありません。それが今、改竄される前の台帳の欠番の端に、消されずに残っている。
案件として処理すればよい。そう思うほど、手袋の中の指先が冷えていきます。
「マルタ書記官。この欠番の頭文字と、母の祈願番号の照合照会を、正式に申請いたします」
マルタ書記官の羽ペンが、いつもより1拍だけ遅い速度で紙の上を走りました。
◇
廊下でアルベリク神官長様と行き合いました。
白い祭服に紺青の肩布。背筋は真っすぐで、表情に乱れはありません。
「マルタ書記官」
アルベリク様が先に口を開きました。私ではなく、マルタ書記官へ向けて。通達に従った、正しい形です。
「照会補佐官の今後の資料提出経路について、確認があります」
「はい、承ります」
廊下が静かです。石壁の冷気と、礼拝の残り香。私たちは3人、等間隔に立っています。
「照会を、続けてください」
その一言だけが、私へ向けられていました。
私は頷きました。声を出さなかったのは、出すと震えるかもしれなかったからです。
「いつ根拠が揃っても、雨の――」
アルベリク様の声が、そこで1拍だけ止まりました。
雨。
その語で声が止まった理由を、今日の私には問えません。ただ、肩布の縁を親指がなぞりかけて、途中で静かに止まりました。
「……根拠が揃い次第、すぐにお知らせください」
「承知いたしました」
廊下が、少し長く感じられました。マルタ書記官が足元の石の目地を静かに見ていたのは、気づかなかったことにいたします。
―――
神殿の外階段に出ると、秋の空気が頬に当たりました。
石段の下で、紺の礼服を着た貴族が2人、若い神官に話しておりました。左胸に王家分家の小紋。王弟派の方々です。
「神官長が中立を装っているのは、令嬢の照会に正当性を与えるためでしょう。癒着は内側から崩せない」
声は低いが、意図して届く音量でした。
私は足を止めませんでした。扇子の骨を、手の中で一度だけ静かに確かめます。
直接反論すれば、噂が強まる。感情を先に出せば、後の記録が汚れる。今は聞こえた言葉を順序に変えるだけです。
石段を下りながら、礼服の袖口が目に入りました。
紺の布の端に、白い粉が薄く残っています。白百合香油の粉ではない。粒が細かく、色がわずかに暗い。黒百合を乾燥させた粉と、同じ色でした。
私は扇子を開きませんでした。
神官長様の中立は、誰のためですか。
その問いへの答えは、まだ届きません。けれどこの袖口の粉は、記録の根拠になります。そして母の旧姓の頭文字は、改竄前台帳の欠番の端にある。
次に問うべき照会の名前が、もう決まっておりました。




