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「連載版」「命の番」ですって?大変ですわ、神殿に正式照会いたしましょう  作者: 夢見叶
第4章 神殿内部に、黒百合の鍵がある

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第29話 監査官の到着まで、あと半日

 朝の第3鐘から2時間が過ぎておりました。


 証拠整理室は、白百合神殿の中でも窓が1枚しかない部屋です。曇りのため光は薄く、積まれた閲覧札の束と台帳の写しが、長卓の上に折り重なっています。砂時計はすでに一回転しておりました。砂の落ちる音だけが、部屋の冷えた空気の中でかすかに続いている。


「この番号、前後が逆です」


 マルタ書記官が羽ペンを垂直に立てたまま、台帳の1行を指先で示しました。青インクで染まった指が、1か所だけをまっすぐ差す。


「第47番の返却印が、前後2枚と筆跡が違います」


「似てはいますわね」


 私は身を乗り出しました。横線の力、縦棒の微かな傾き、点を打つ角度。どれもマルタ書記官の筆に近い。けれど何かが違う。


「私の字に似ております」


 マルタ書記官の声は平板でした。ただ羽ペンを握り直す指が、少しだけ強くなりました。


「ですが、私ならここで点を打ちません」


 隣でイザーク様が神殿法小冊子の角を折りかけ、止まりました。謝る代わりに目を伏せる方です。


「つまり、誰かが書記官の筆跡を真似た」


「真似ようとした者が、おります」


 マルタ書記官はそう言って、羽ペンを机に置きました。音が、思ったより小さかった。怒っている時ほど音を立てない方です。


「筆跡を真似ても、呼吸までは真似られません」


 その言葉を、私は胸の棚に置きました。


 窓の外で風が変わりました。乾いた朝の風ではなく、少し湿った、雨の前の匂いです。砂時計の最後の砂が落ちた瞬間、廊下から足音が近づきました。


―――


 石廊下は冷えておりました。


 午前の光が雲で遮られているため、白い壁が薄灰に見える。アルベリク神官長様が廊下の端に立っておられました。紺青の肩布が、白い石の中でひと際重く映える。背筋は真っすぐで、表情に動揺はありません。


「公爵令嬢」


 職務の声でした。


「監査官クラウス殿が、早馬により到着を早めました。今から2時間以内です」


「承知いたしました」


「加えて」


 神官長様は私を見ました。金の瞳は静かで、感情の見えない温度のままです。


「公爵令嬢も、監査対象に加えられます。照会権は、監査官の確認が終わるまで一時留保されます」


 瞬間でした。


 私は手袋の縫い目を爪で押さえました。薄菫の布が、指の形に少しだけ沈みます。神官長様が私を突き放しているのではないと、頭では分かっています。このようにすることで、私の照会の正当性を守ろうとしているのも。


 分かっています。


「神官長様」


「何でしょう」


「私が疑われても、手続きは止まりませんわね」


 神官長様の親指が肩布の縁にかかりかけ、止まりました。


「止まりません。公爵令嬢なら、そうなさいます」


 距離は縮まりませんでした。廊下の奥から若い神官の足音が近づいてきたため、私たちは別々の方向を向きました。手袋の縫い目の痕が、指先に残りました。


―――


 神殿正門の石畳は、重い空を映していました。


 風が少し強くなっておりました。石柱の間を通るたびに、白百合の香油の匂いが薄れ、土と雨の気配が混じります。神官たちの祭服が波のように揺れ、静粛を保ちながらも誰もが正門の方を向いていました。


 クラウス監査官は想像よりも若い方でした。痩せた長身、銀縁眼鏡、灰白の監査外套。黒革の監査帳を胸元に抱え、馬車から降りながら既に眼鏡を布で拭いておられます。整列した神官たちが白い祭服を揺らす中、その動作だけが際立って事務的でした。


「神官長アルベリク殿、ならびにハイゼンベルク公爵令嬢」


 クラウス監査官が正面を向きました。眼鏡の奥の目は、感情より先に計算をしている目です。


「神殿監査規則第12条に基づき、禁書庫閲覧記録および関連証拠の監査を開始します。神官長も例外ではありません」


「承知しております」


 アルベリク神官長様の返答は、簡潔でした。


「加えて」


 クラウス監査官は監査帳を開きました。


「本件に先立ち、王弟殿下御側近から提出された投書について。送付者名を、内容に先んじて正式記録に載せます」


 神官たちの中で、誰かが小さく息を飲みました。


 投書の差出人を先に記録する。それは投書の内容より、送り手の意図を先に公文書化するということです。クラウス監査官は王弟派の手先ではない。これが1つ目の答えでした。


 監査帳のページが、雨前の風でほんの少し揺れました。


―――


 書記室の燭台は2本です。


 クラウス監査官が黒革監査帳を机に開き、マルタ書記官は筆跡見本帳を並べました。横に置かれた2枚の紙の上を、3人の視線が行き来します。


「この2文字の間隔」


 マルタ書記官が羽ペンの先で2か所を指しました。


「私の場合、ここで少し呼吸が入ります。書いた後、読み返す癖があるので」


「模倣者には、その呼吸がない」


「はい。点を打つ位置も、半年以内の私の筆跡に合わせています」


 クラウス監査官が眼鏡を布で拭きました。丁寧に、同じ動作を2度。


「つまり模倣者は、直近半年のマルタ書記官の字を観察していた」


「書記室に出入りできる者が、でしょうか」


 私が言うと、マルタ書記官はインク壺の蓋を静かに閉めました。怒っている時の仕草です。言葉にはなりませんでしたが、十分でした。


「これは私の筆跡に似ておりますが」


 もう1度だけ、平板な声で言いました。羽ペンを垂直に立て直しながら。


「私の字ではありません」


 クラウス監査官が監査帳に短く何かを記しました。記録されました。


 模倣者がいる。書記系統の呼吸を、長く近くで見ていた者が。


 燭台の炎が外の風で細くなり、すぐに戻りました。



 筆跡には、呼吸がある。


 形を真似た者は、息の場所を知らなかった。


 それはきっと、神殿内部の誰かが記録の形だけを扱い、記録を守る意味を持たなかったことと、似ているのかもしれません。


 書記室を出た廊下で、イザーク様が小冊子の角を1枚だけ折るのが見えました。


「ヴィオレッタ様、あの」


「何でしょう」


「呼吸の話、すごいと思いました。妹も、似たようなことを言っていたので」


 それ以上は言いませんでした。けれど小冊子の角の折り目は、また1か所増えていました。


 夜、クラウス監査官の書簡が届きました。簡潔な字で、1行だけ書かれています。


 碧玉の腕輪の戻り先について、確認したいことがある、と。

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