第28話 貴女様にだけは、お見せしたくなかった
朝の暖炉はまだ薄く燃えていました。灰の匂いが白百合香油の甘さに混ざった執務室に、アルベリク神官長様はお一人でおられました。青灰色の髪が窓からの光を受けてかすかに白く、紺青の肩布だけが白い祭服の上で重く見える。机の上には書き物が広げられていました。インクの乾く前の頁は、空気の中でわずかに光を帯びていました。
「イザーク補助神官の証言記録を確認いただけますでしょうか」
「はい」と、神官長様は書き物を置きました。立ち上がる動作の途中で——袖口から、何かが落ちました。
低い音が、静かな執務室に響きました。
白い石床に、小さな透明の小瓶が転がる。中には灰が入っていました。黒と白の、まだら。焼けた紙と、焼けていない何かが、互いに混ざりきらずに層になっている。
神官長様の動きが止まりました。1拍。
私は小瓶を見ました。封印蝋がない。封印日もない。正式な保管物でないことは、見ただけで分かります。
「神官長様」
「……落としました」
「存じております」
小瓶を拾わず、立ったままお聞きしました。神官長様の金の瞳が私を見ている。視線は揺れない。けれど、親指が紺青の肩布の縁へ伸びかけ——途中で止まりました。その仕草を、私は見ていました。
「これは、正式な保管場所から持ち出されたものですか」
「……分析が必要なものです」
「分析をお願いする前に、経緯を伺います」
暖炉の火が一度だけ爆ぜて、沈黙が来ました。職務語がいつもより遅く出てくる。それだけで、何かが分かってしまう。
神官長様の口がかすかに開き、また閉じました。また、開きました。
「……私が焼いたのではありません」
それだけでした。
分析室は北向きで、午前の光が細く差していました。白い石の台が3台、窓際に並んでいる。銀皿の上に小瓶の灰が広げられると、白百合香油の甘い匂いが薄く漂いました。
「香油反応の確認を始めます」
茶色の髪を厳しく結い上げたマルタ書記官の指が、迷いなく試薬瓶へ向かいました。紙を見る時だけ鋭くなる眼差しが、今は銀皿の上に注がれています。アルベリク神官長様は分析台の斜め後ろに立っておられました。近くもなく、遠くもない。仕事のための距離。
試薬が灰に触れた瞬間、2色の反応が出ました。
青白い光が広がる——白百合香油の反応。
そして、黒い沈殿。
「黒百合粉ですわ」
マルタ書記官の羽ペンが一瞬止まり、ページを確認する目になりました。部屋の温度が少し下がった気がしました。
「神殿内部者でなければ、白百合香油と黒百合粉を同時に扱えません」
私は銀皿を見ながら言いました。灰の表面に、青い繊維が1本。神官長様の紺青の肩布と、同じ色でした。
私は視線を動かしませんでした。ただ、神官長様の親指が肩布の縁へ伸びかけて止まった気配が、視界の端にありました。
「この灰は」と、私は聞きました。「改竄前台帳の写しですか」
「……一部は」
「一部は、何ですか」
マルタ書記官は羽ペンを紙へ向けたまま、どちらの声を先に書くか決めかねている様子でした。発話者が3人いる場面で、彼女は常に順序を守ります。今日は珍しく、手が止まっている。
「監査経路が汚染されている疑いがありました」と、神官長様は言いました。「だから、手元に」
それ以上は続きませんでした。職務語の形をした言葉が、そこで途切れる。その奥に、抑えた何かがある。怒りの手前のものが、低音の中に混じっていました。
それが聞こえてしまうのが、困ります。
書記室の昼前は、青インクの匂いがしました。窓から外の空気が薄く入ってきて、紙の端がわずかに揺れる。マルタ書記官が新しい記録頁を広げ、羽ペンの先を整えました。
「灰の保全経緯も、記録に入れますか」
「入れます」
「神官長様の御名も、保全経緯の記録欄に」
「入れます」
マルタ書記官は1拍だけ羽ペンを垂直に立て、それから書き始めました。アルベリク神官長様の名が保全経緯欄に入っていく。それは監査対象欄と同じ頁です。
扇子を開こうとしました。
やめました。
「……公爵令嬢」
マルタ書記官がインク壺の蓋を静かに閉めました。彼女が記録の途中で蓋を閉める時は、言葉を選んでいます。
「記録することと、信じることは、異なります」
私は彼女を見ました。眼差しは変わらず平らです。けれど、インク壺の音は覚えていました。優しさを職務のふりで置いてくれる人です。
「存じております」
署名を書きました。手が、震えませんでした。
白百合廊下は夕刻前の光で長く見えました。石床の継ぎ目が等間隔に続いて、突き当たりの窓から薄青い空が見える。書記室を出て間もなく、廊下の奥にアルベリク神官長様が立っておられました。白い祭服の胸元は乱れていない。金の瞳が、私をまっすぐに見ています。
「提出書に、私の名を入れましたか」
「入れました」
息が、かすかに動きました。視線は逸れませんでした。
「……貴女様にだけは、お見せしたくなかった」
低い声が、廊下の白い壁に静かに落ちました。
扇子に手をかけませんでした。
「それは」と私は言いました。「私を信じていないのと、同じですわ」
「違います」
「では、何が違うのですか」
神官長様は1拍口を閉じました。金の瞳の奥で何かが動いている。言葉になる前の、言葉の形。肩布の縁を、親指がまたなぞりかけました。
書記室のドアが少し開いていました。マルタ書記官が記録帳を手に羽ペンをこちらへ向けかけ、「ただいまの御発言は職務発言でしょうか——」と、口が動いているのが見えました。
「貴女様が——」
その時。廊下の奥から、鐘が鳴りました。
低く、重い。神殿正門の到着鐘です。
神官長様の視線が、一瞬だけ窓の外へ動きました。
「監査官が」と、神官長様は言いました。「到着しました」
予定より半日早い。
「……続きは、改めて」
職務語が廊下を静かに占拠しました。マルタ書記官の羽ペンが止まり、記録帳が音もなく閉じられました。
◇
私を守るためという言葉で証拠を隠されるのは御免ですわ、と言うつもりでした。
言えませんでした。
神官長様が、その言葉を使っていないことだけは、分かっていたから。
分かっていても、疑わなければならない。
それが、照会官というものです。




