第27話 イザークの妹は、偽聖女に祈った
午前の書記室には、青インクの匂いと白い光が同居しておりました。
昨日からの閲覧札記録が机に広げられ、棚の台帳がいくつも重ねられている。第47閲覧札は台帳では返却済み、札箱では欠番――その矛盾を誰がいつ作ったかを辿るための、今朝最初の確認です。
イザーク・ベルクマン様は、机の端の椅子に浅く腰掛け、視線を窓の外の石壁へ向けておりました。細い肩に少し大きすぎる法衣、薄茶の髪が朝の光にぼんやりと浮かびあがっている。膝の上の神殿法小冊子を、指先でひとなぞりしては、止まる。それを繰り返しておりました。
「昨日の閲覧札の件です。イザーク様のご記憶に、何か――」
「ぼ、僕は補助ですから」
「存じております」
「補助なので、詳しいことは……」
「はい」
急かしません。マルタ書記官は羽ペンを垂直に立て、記録帳の次の行を空白のまま待っておりました。書記室の朝の空気は、冷えていて静かで、インク壺に反射した光が天井でゆれている。
「補助ですので――」
「3度目です」
マルタ書記官が真顔のまま言いました。
「え」
「補助発言、今朝だけで5回を超えましたが、記録対象でしょうか」
イザーク様の顔に、困惑と情けなさが半分ずつ浮かびました。眼鏡の奥の目が、少し丸くなっている。私は「記録は結構ですわ」とだけ返し、照会状の控えに視線を落としました。
その時、机の縁から、何かが落ちました。
紙の折り畳まれた端が、床に一枚。イザーク様が慌てて手を伸ばし、そのまま固まりました。立ち上がりかけた姿勢のまま、両手が机の縁についている。
私は視線だけを落としました。
それは栞ではありませんでした。薄く古い紙に、子どもの丸い字で番号が書かれている。余白の印は小さく、かすれている――白百合の形をしていません。
偽聖女セレスティナの、祝福印でした。
「イザーク様」
「……知っています」
声が変わりました。先ほどとまったく違います。詰まりも、逃げも、補助への退路もない。低く、落ち着いている。ただ、重い。
「僕の妹の、祈願札です」
◇
祈願札保管室は、廊下より3度ほど低い気がいたします。
棚が三方の壁を覆い、色分けされた細い紐の束が整然と架かっておりました。小窓が一つ、白い光の一条を床に落としている。白百合香油の匂いが棚の奥から漂い、他の保管室とは匂いの濃さが違いました。アルベリク神官長様は棚の手前に立ち、私の斜め後ろに距離を置いておられます。青灰色の髪、静かな金色の瞳、紺青の肩布が薄暗い棚の前で重く見えました。
イザーク様は扉の近くで、両手を握り合わせたまま動きません。
「未成年被害者の祈願記録は、閲覧制限の対象です」
神官長様の声は穏やかでした。廊下よりわずかに低く、香油の匂いに溶けるように。
「正式代理照会があれば、照合は可能です。正規の手順で参ります」
「代理照会を」
「提出してください」
私は控えを差し出しました。神官長様が受け取り、番号を確認した。これ以上は何も言わない。規則を迂回せず、例外を作らない。それが今は、どこまでも頼もしい。
照会番号が通ると、神官長様が棚の奥へ手を伸ばし、小さな木箱を引き出しました。蓋を開けると、細い紐の束。その中の1枚だけ、白百合香油の染みが他より明らかに濃い。
「この札だけ、香油の量が違いますわ」
「保存のためでは……」
イザーク様が、声を絞り出すように言いました。目の縁がうっすら赤くなっている。
「いいえ」
私はその紐を小窓の光にかざしました。染みの広がり方が、禁書庫封印箱の灰色の蝋の染みと、同じ形をしております。
「誰かが意図的に香油を濃くつけました。目印です」
イザーク様の息が、止まるのが聞こえました。神官長様の親指が、肩布の縁へ伸びかけて、途中で、止まりました。
◇
小審問室には、音を吸う静けさがあります。
白い石壁が四方を囲み、窓がなく、木の椅子と机だけがある部屋です。マルタ書記官が羽ペンを構え、私はイザーク様の向かいに座りました。彼は椅子の端に浅く腰掛け、膝の上に神殿法小冊子を置き、両手でそれを押さえています。表紙の角がまた折れかけておりました。
「急がなくて結構ですわ」
「……はい」
「記録されるのは事実だけです」
マルタ書記官が羽ペンを少し傾け、私が目で合図すると小さく頷きました。
「妹様が祈願所へ行った日を、覚えておいでですか」
「……覚えています。雨の日でした」
「その日、妹様はどちらへ」
「神殿南口の、特設祈願所です。偽聖女の……セレスティナ様の」
声が、少し乱れました。それでも続きます。
「父の病が悪くなっていたころで、妹が何かしなければと。僕は止めませんでした。どうせ効かないと思って……でも妹は、泣きながら行って」
そこで詰まりました。指が小冊子の角を折りながら、また折りながら、止まった。
私は扇子に触れませんでした。手袋の指先を、小冊子の縁に軽く置きました。
「イザーク様」
彼は俯いたまま、顔を上げません。
「妹様は、祝福を買いに行ったのではありませんわ」
「でも」
「祈りに行ったのです。泣きながら出した札も、正式な祈願です」
しばらく間がありました。羽ペンの音が紙を走る音だけが、石壁の間に続く。
それからイザーク様が、ゆっくり顔を上げました。頬に赤みが出て、目が赤い。でも今話で初めて、視線が私の方へまっすぐ向かってきました。
「僕の妹は」
低い声でした。
「祝福を買ったんじゃありません。祈ったんです。父のために、届くかどうかも分からないのに、泣きながら。妹には、それしかできなかった。でもそれは――」
声が震えました。今度は怯えではなく、怒りの震えです。
「――祈りです」
マルタ書記官の羽ペンが、一瞬止まりました。インク壺の口が静かに閉められる音がした。それから羽ペンが、また動き始めました。
「受付書記官欄」
彼女の声は変わりません。
「空白のままですね」
祈った者の名は残り、受け付けた者の名が消えている。誰かがこの記録から、自分の痕跡だけを取り除いた。
「はい」
私は照会状に書き加えました。筆先は震えません。
弱い証言ではありませんでした。これは今まで見てきた中で、最も証人としての資格がある言葉でした。
◇
審問室の扉が閉まると、廊下の冷えが戻りました。
午後へ傾いた光が柱の陰を伸ばし、白い床に細い影を落としております。私は次の照合順序を頭の中に組み立てながら、控えを揃えておりました。アルベリク神官長様が、少し後ろを歩いておられます。
「イザーク様の証言は、記録に値します」
「はい」
「香油の濃度照合を、次の照会へ加えます」
「承知いたしました」
それだけでした。でも神官長様の歩調が、わずかに遅れております。私は立ち止まりましたが、振り返らなかった。
「神官長様」
「……はい」
「先ほど、肩布に手を伸ばしかけましたわね」
柱の向こうで、書記室の戸が閉まる音がしました。廊下に、静けさが戻ります。
「貴女様の証言の待ち方は」
低い声が、白い廊下の空気に落ちました。
「祈りに、似ております」
言いかけて、止まりました。
私は扇子を開きませんでした。振り返りもしませんでした。手袋の縫い目を、ただ押さえました。
背後で、衣擦れの音がしました。
神官長様が、袖の中へ何かを戻される音でした。
その何かが何であるか、今の私にはまだ分かりません。分かっていても、今は問えない。問いを立てるには、もう少し、順序が必要でした。




