第26話 禁書庫の鍵を持つ者は、誰ですか
禁書庫の前に立ったのは、神殿の鐘が午前10時を打つ直前でした。
白い石廊下は、冬の朝の光を均等に受けて静かに冷えております。足音が吸い込まれるように消えていく。その端に、白百合香油の残り香。清潔で神聖で、神殿に来るたびに安心を覚えた、いつもの匂いです。
けれど今朝は、その香りの奥に別の何かが混ざっていました。
焦げた蝋の匂い。
「公爵令嬢」
私の隣でアルベリク神官長様が足を止めました。青灰色の髪、静かな金の瞳。紺青の肩布が、白い廊下に重く映る。その視線は禁書庫の扉ではなく、扉わきに置かれた封印箱へ向いておりました。
私もそちらを見ました。
封印箱の蝋が、灰色に濁っている。
白百合神殿の封印蝋は、清潔な乳白色のはず。それが、灰と蝋を混ぜたような、鈍い色になっておりました。
「……封蝋の色が、違いますわね」
「はい」
神官長様の声は低く、静かです。肩布の縁を親指でなぞる仕草を、私は横目で確認しました。動揺の仕草ではありません。けれど、いつもより少しだけ指の動きが速い。
マルタ書記官が羽ペンを垂直に立て、後方でメモを取り始めました。細い声が聞こえます。
「封蝋の変色、記録いたします」
イザーク様が廊下の端に控え、神殿法小冊子を胸に抱えておりました。細い肩が、冷えた石廊下の中でいっそう細く見える。視線は封印箱に向いていますが、どこか遠いところを見るような目です。
私は扇子に触れました。開こうとして、止めました。
骨を鳴らせば、指が震えていると分かってしまう。
神殿を疑う日が来るとは、思っていませんでした。疑いたくない。しかし、疑わなければ誰かの祈りがまた消える。その順序だけを、今は頼りにしておりました。
「封蝋を照会条件として記録できますか」
「できます」
マルタ書記官の答えは、いつも通り素早い。
「白百合封蝋への混入物、封印箱の開閉痕、最終確認日時の3点を合わせて記録しておきましょう」
神官長様が黙っておりました。2拍。3拍。マルタ書記官の羽ペンが、一瞬止まります。
「神官長様の沈黙、3呼吸を超えましたが」
マルタ書記官が真顔で言いました。
「記録対象でしょうか」
「今は鍵を」
神官長様の返答は短く、そして淡々としておりました。廊下の空気が少しだけ緩んで、すぐまた冷えていく。
封印箱の蝋は、誰かが一度開けて、また閉じた痕かもしれません。
私は手袋の縫い目を、親指で押さえました。
◇
禁書庫受付台の前に立ったのは、それから半刻ほど後のことです。
薄暗い受付区画は、窓がひとつしかなく、白い廊下とは別の種類の冷えがあります。木製の札箱が棚に並び、鍵束の音がしないよう布の上に置かれている。受付を守る封印庫番の男は、白髪まじりの節くれだった手で台帳を開いておりました。
「第47閲覧札は、台帳上は返却済みでございます」
低く短い声。質問されるほど、規則の言葉が増えていく。
「返却印の日付を、お聞かせいただけますか」
「先月の15日でございます」
「では、札箱の第47番の溝を見せてください」
男の手が、わずかに止まりました。
私はその手の動きを見ておりました。止まった。その止まり方は、知っている者の止まり方です。
男は答える代わりに、札箱を静かに引き出しました。
47番の溝が、空いておりました。
「台帳上は返却済み」とマルタ書記官が羽ペンを走らせます。「物理的閲覧札は欠番、確認済み」
私は欠番の溝を見ました。溝の底に、青インクの返却印が残っています。
「返したのは、札ですか」
男が顔を上げました。
「印ですか」
受付台の上に、細い沈黙が落ちました。
返却印だけを先に書くことができるのは、禁書庫の台帳を扱える者だけです。外部の者には無理。神殿の内側にいなければ、できない。
「記録をお預かりしてよろしいですか」
マルタ書記官が穏やかに申し出ました。男はゆっくりと、台帳を差し出しました。
私は返却印の筆跡に目を向けました。見覚えのある文字の並び。
マルタ書記官の手元に似ている。
◇
神官長様の執務室は南に窓があり、昼前の光が斜めに差し込んでおりました。書類の棚、羊皮紙の匂い、インクと松脂の混ざった空気。普段は落ち着いた場所のはずが、今日は何かが違って見えます。
私はそれが何か、すぐに気づきました。
机の上に、鍵が置かれていないのです。
「神官長様。鍵保管者のリストを作成したいのですが」
「禁書庫鍵の権限保持者は、現在3名です」
神官長様が白紙を一枚引き出しました。名前を書き始めようとして、代わりに懐から何かを取り出す。
銀の鍵でした。
静かに、机の中央に置きました。
「禁書庫第1番鍵。私が保管しているものです」
マルタ書記官の羽ペンが、一拍遅れて動きました。
「私も、対象に加えてください」
アルベリク神官長様の声は、職務と、それ以外の何かが混ざっていました。金の瞳が私を見ておりません。机の上の銀鍵を見ている。
私は息を、一度だけゆっくりと吐きました。
守ってもらうのではなく、同じ台に載せてもらった。
その感覚は、思っていたよりも重く、そして痛みに似た形をしておりました。
「神官長様の鍵の管理記録も、照合いたします」
「どうぞ」
私は扇子を開きませんでした。
銀の鍵の縁に、白百合香油の痕が残っているのを、私だけが見ておりました。
◇
中庭へ向かう廊下で、若い神官が3人、私たちとすれ違いました。
誰も挨拶をしませんでした。
視線だけが来て、去っていく。白百合中庭の光が廊下に差し込む角度で、彼らの顔が一瞬明るくなり、暗くなる。公爵令嬢が神殿の内部を照会しようとしている。廊下を歩くだけで、それが空気になっておりました。
神殿を守るために、神殿を疑う。
思っていたより、孤独な行為です。
「あの」
廊下の壁際から、細い声がしました。
イザーク様が、壁に背を当てて立っておりました。法衣の袖が少し大きく、袖口に何かが覗いている。神殿法小冊子の角を、両手で折りながら折りながら、開いたまま持っておりました。
「何か」
「その、あの……」
イザーク様の視線が私に向いて、若い神官たちが去っていった廊下の奥に向いて、また戻ってきました。
「廊下が、少しうるさくなりそうだったので」
それだけ言うと、視線を足元に落とします。盾になろうとした。それが精一杯の形でした。
私はイザーク様の持つ小冊子を見ました。
開かれた頁の端に、折り目がありました。古い折り目で、何度も同じ場所を折り返した跡。その折り目の近くに、薄い文字が見える。
子どもの字でした。
名前が、書いてある。
「イザーク様」
「は、はい」
「その頁は、どなたかが折ったものですか」
イザーク様の手が、小冊子を少し強く握りました。返事が来るまでに、廊下の時計が半刻分の音を立てました。
「……妹が、折りました」
次の話で、この声を正式な記録にしなければなりません。
私は廊下の先を見ました。白百合中庭の光が、今は少しだけ遠く見えます。




