第25話 黒百合の名が、台帳に刻まれました
黒百合商会。
その名を、マルタ書記官が正式台帳に記した瞬間、礼拝堂にいた全員が、まるで花の名ではなく刃の名を聞いたように黙りました。
黒百合商会。納品品目、黒百合水。用途、神託婚補助。支払い、金貨800枚。備考欄には、たった一文字。
碧。
以前、王家秘宝・碧玉の腕輪の流出記録で見た記号と同じでした。
礼拝堂は、すでに婚礼の支度が剥がれておりました。祭壇の花は片付けられ、花嫁の席には白い布が被せてある。石灰色の朝の光が、細長い窓から斜めに差し込んでいます。蜜蝋燭の消えかけた甘さと、白百合香油の余韻だけが、まだ空気に残っておりました。エルネスタ様は別室で休んでおられます。声を出した後の疲れで、まだ眠っておられましたが、今度の眠りは薬によるものではない。自分で選んだ眠りです。
マルタ書記官が羽ペンを台帳に当てたまま、一度だけ深く息を吐きました。眼鏡の奥の瞳は台帳へ向いたまま、いつも感情を手元に置く人が、たった一文字の商会名にだけ、少しだけ筆の先を止めた。止まったのは一瞬だけ。次の瞬間には、また淡々と記録が続きます。
「記録いたしました」
それだけで、全てでした。
私は息を整えました。勝ったのです。神託婚は停止され、エルネスタ様の「嫁ぎたくありません」は本人意思確認欄に記録されました。ロイス・カントは神殿由来詐称と薬物投与の疑いで拘束。フォルケン侯爵の父権代筆は無効。カーレン伯爵の水利権契約も、婚姻を前提としていたため差し止め。
勝った。
確かに、勝ったはずでございます。
イザーク様が台帳の「碧」の文字を覗き込み、「碧玉の、あの……」と小さく呟いております。青ざめた頬に、馬車酔いとは別の色が入っておりました。彼が何かに気づきかけている。その顔に、私は少しだけ答えを返したかった。けれど、答えるためには、まだ知らなければならないことがある気がして、扇子を半開きのまま、口を開かずにおりました。
アルベリク様は肩布の縁に親指を当てたまま、窓の外を一瞬だけ見ました。その金色の瞳が何を捉えていたのか、私には分かりません。分からないまま、勝利の後の静けさの中で、私は扇子の骨をゆっくりと握り直しました。
けれど、勝利の紙は、時に次の不幸を挟んでおります。
「記録棚から煙です!」
イザーク様の声に、全員が振り返りました。
地方礼拝堂の奥、古い記録棚の方から、灰色の細い煙が上がっております。ベルム司祭代理の姿がない。アルベリク様が即座に動き、白い祭服の裾を翻して走りました。私もその後を追います。
◇
棚の前に着いた時、炎はすでに小さくなっておりましたが、確実に仕事を終えておりました。薬水納品台帳の一部。神託婚仮承認の控え。そして、禁書庫閲覧札の束。
イザーク様が上着で残り火を叩き消しました。青ざめた顔に灰の粉が舞い散り、眼鏡のレンズが曇っています。
「ベルムが……逃げた?」
「記録の持ち出しは止めましたか」
アルベリク様の問いに、イザーク様が首を横に振りました。金色の瞳が一瞬だけ細くなる。怒りではなく、何かを速やかに計算するような、静かな収縮。
「出入口は2か所。北側は施錠済みです。ですが、南の裏口に鍵が残っておりません」
「分かりました」
怒るほど言葉が少なくなる人だと、私はこの10日ほどで知っておりました。肩布の縁を押さえる指は動かない。
すべて燃えたわけではございません。
灰の下に、1枚だけ、濡れたように黒く縁取られた閲覧札が残っておりました。
アルベリク様が拾い上げるより先に、私はその番号を見てしまいました。
末尾だけが水で滲んでいる。
けれど、見間違えるはずがございません。
3年前、私が白百合神殿で何度も探し続けた番号。亡き母が、父の病の回復を祈ったはずの記録。母の命日の前日に、私が神殿書記室へ足を運び、ただの一度も見つけられなかった番号。
扇子を開こうとして、開けませんでした。
指が、骨の冷たさを握ったまま、動かない。礼拝堂に残った灰の匂いが、白百合香油の甘さに溶けています。エルネスタ様を救った部屋の空気が、今は別の意味で喉を押さえる。
エルネスタ様の荷箱には、逃げるための靴が入っておりました。逃げられなかっただけ、と私は思った。では、母の祈りは。黒百合に「見られていた」だけ、と。今は、そう思っております。
水差しは、清め水だったはずでした。それが奇跡水になり、沈黙の道具になった。水は、形を変えます。けれど今この閲覧札の上で、母の番号は水に滲んだまま消えずにある。消されなかったのか、消せなかったのか。どちらでも、私には関係ありません。残っているのです。
「神官長様」
声が、出にくい。
「なぜ、母の祈願番号が、黒百合商会の閲覧札にございますの」
アルベリク様の顎が、一瞬だけ引かれました。返す言葉を探している顔ではなく、返すべきかどうかを選んでいる顔。神官長として10年、神殿の記録を守ってきた人の顔です。
アルベリク様は答えませんでした。
台帳へ手を伸ばしかけます。閉じようとしたのだと、すぐに分かりました。隠すためではない。たぶん、今の私に見せないため。以前、禁書庫の台帳を閉じようとされた時と、同じ動きです。
それでも、私は言いました。
「神官長様。保留とは、隠すことではございませんわ」
私は扇子を閉じました。
アルベリク様の手が、止まりました。
金色の瞳がこちらを向きます。その顔に怒りはなく、困惑もなく、ただ何かを選んでいるような、重い静止がありました。「怒りは、照会を汚しません」と言った夜と同じ目です。ただ、あの夜より、ずっと長く、私を見ている。
マルタ書記官が記録板を開いたまま、一字も書かずにおります。イザーク様が出口の方を確かめるように一歩ずれて、それから静かに戻りました。
礼拝堂の窓の外で、朝の鳥が一声啼きました。婚礼の鐘は、鳴らなかった。
でも、別の何かが始まろうとしております。
「この閲覧札は」
私は言葉を選びました。
「神殿内部の者でなければ、持ち出せませんわね」
アルベリク様は、まだ答えません。
マルタ書記官が、記録板の余白に何かを書きました。私には見えません。ただ、羽ペンの先が一度だけ止まったのが、聞こえました。
その沈黙が、この章で最も重い記録になりました。




