第24話 神託婚の花嫁と、逃げ支度の荷箱
嫁入り道具の荷箱には、逃げるための靴が入っておりました。
白い絹靴ではございません。舞踏会用の飾り靴でも、婚礼の刺繍靴でもない。泥の跡が残った、柔らかい革靴。何度も履かれ、何度も戻され、けれど一度も門の外へ出られなかった靴です。
エルネスタ様は寝台の上で、まだ少しぼんやりしておられました。奇跡水を止めてから、ようやく半刻。頬には血の気が戻り、唇は震えている。けれど、その震えは恐怖だけではございません。
声が、戻ろうとしているのです。
「鍵を……」
かすれた声で、彼女は言いました。
「荷箱の、底に」
私は頷き、侍女から荷箱を受け取りました。フォルケン家の紋が入った大きな箱。婚礼の朝、花嫁が嫁ぎ先へ持っていくはずのもの。父侯爵はきっと、そこに従順な娘の証を詰めたつもりだったのでしょう。
けれど、底板の下には、母の手紙、未使用の祈願札、空の水瓶、そして逃げ靴がありました。
逃げる準備は、していた。
逃げられなかっただけ。
その事実に気づいた瞬間、私の胸の奥で、何かが静かに割れました。
エルネスタ様は、私の扇子を見つめておられました。開かれた扇子。怒りも涙も隠すための、私の小さな壁。
私はそれを、閉じました。
「エルネスタ様」
できるだけ穏やかに呼びかけます。
「神殿書記官が同席しております。今から伺うお言葉は、神託婚本人意思確認欄へ記録されます」
マルタ様が羽ペンを構えました。アルベリク様は少し離れた場所に立ち、誰にも口を挟ませない沈黙を作ってくださっている。
エルネスタ様は喉を押さえました。
「わたくし」
一音ごとに、痛そうでした。
「嫁ぎたく、ありません」
羽ペンが、紙の上を走りました。
その音は、祝福鐘よりもずっと神聖に聞こえました。
◇
マルタ様が、羽ペンを持ったまま目元を拭いました。
「……涙は、記録に入りません」
イザーク様が小声で「今のは、入れてもいいと思います」と言い、マルタ様が「入りません」と返した。低い声で、しかし確かに。
その小さなやり取りが終わる前に、廊下の足音が荒くなりました。
扉が、内側から押されました。
「エルネスタ」
オルドリック・フォルケン侯爵が、部屋へ踏み込みました。旅装のまま、右手の家門指輪が蠟燭の光を弾いている。視線はまず娘ではなく、マルタ様の記録板へ向かいました。
「娘が、何か申したか」
父の声は、温厚な丸さをなくしておりました。
「あの子は錯乱している。薬が抜けきっておらぬ。神殿の記録に使えるような陳述ではない」
アルベリク様が一歩、前へ出ました。紺青の肩布が、早朝の薄明かりの中でくっきりと見えました。
「侯爵。神殿法第22条第3項において、担当神官が意思能力に問題なしと判断した本人陳述は、有効でございます」
「誰が判断したのだ。貴殿か。公爵令嬢に肩入れした神官長が」
アルベリク様の声が、祈祷文のように静かになりました。
「私が判断いたします。今この瞬間、エルネスタ・フォルケン嬢の意思能力に問題はございません。マルタ書記官、その旨も記録に」
「記録します」
羽ペンが走る音が、また、部屋に落ちました。
侯爵の指輪が回りました。苛立ちの仕草を、私は何度か見ておりました。
「神殿が地方家門の婚姻に干渉するのは越権だ。婚礼は、朝の鐘で成立する。そう決まっておる」
「成立いたしません」
私は言いました。
扇子は、閉じたままです。
「神託婚において、本人意思確認欄は必須でございます。ベルム司祭代理が発行した仮承認は、本人陳述が揃うまで停止されます。神殿法第34条第2項です」
侯爵の目が、私へ向きました。公爵家の娘を、ここで初めて、本当の意味で見た目でした。
「娘を売っているのではない」
絞り出すような声でした。
「家を、守るために……娘が嫁げば、借金が消える。水利権も残る。エルネスタにも、カーレン家の屋敷という——」
「侯爵様」
エルネスタ様が、寝台の上で身を起こしました。
細い腕で上体を支え、淡い栗色の髪が乱れたまま、父を見ておられる。唇は乾いている。けれど語尾が、途切れていない。
「わたくしは、嫁ぎたくないと申しました」
父が、何か言いかけて、止まりました。
娘の声が、10年の間に初めて、はっきりと部屋に残ったのかもしれません。
外から、鐘楼の方向で音がしました。試し鳴らしの、短い一打。イザーク様の顔が窓へ向く。
「日の出まで……」
「止まります」
アルベリク様が告げました。低く、穏やか。命令でも怒りでもなく、記録の朗読のように。
「本人意思確認が成立した時点で、神託婚の仮承認は停止されております。祝福鐘は、無効な婚礼のために鳴らせません」
侯爵が、大きく息を吸いました。返す言葉が出てこないのか、それとも出せないのか。灰色の髭が、微かに揺れました。
私は侯爵を見て、それから娘を見ました。
エルネスタ様の手元、荷箱の縁に、指が触れていました。その中に、逃げ靴と、空の水瓶と、母の手紙が入っている。一度も玄関を出られなかった靴が、今日初めて、嫁ぎ先ではない方向を向けた。
侍女長ロザが、静かに近づきました。白い布で手を拭いてから、荷箱の鍵を取り出した。枕の下から取り出した鍵を、そっと底板の脇に戻した。エルネスタ様がロザを見た。ロザは目を伏せました。責めていない。ただ、見ていた、と伝えるように。
ヴィオレッタ様ではなく、沈黙を重ねてきた同士が、静かに目を合わせた瞬間でした。
「侯爵」
私はもう一度だけ言いました。
「神の御意志は、本人の声を恐れません」
オルドリック・フォルケン侯爵が、返事をしませんでした。指輪を回す手が止まり、肩が落ち、大きな体が一回り小さく見えました。怒りではなく、何かが壊れた後の静けさでした。
日の出の光が、窓の端から差し込んできました。金色ではなく、まだ灰色がかった朝の光。礼拝堂からは、祝福鐘の音は聞こえない。
鐘楼は、黙っておりました。
「マルタ様」
私は振り返りました。
「本人意思確認欄の記録は、完成しておりますか」
「しております」
マルタ様は羽ペンの先を整えながら、真顔で答えました。その目元に、先ほどの赤みがまだ残っておりました。
私は頷きました。
扇子は、閉じたままです。
エルネスタ様が、静かに息を吐きました。声ではなく、体の奥から出てきた息。長い間、水と眠りと沈黙の中に押し込められていたものが、少しだけ外へ出た音でした。
「記録して……いただけて、よかったです」
私は何も言いませんでした。
言えるような言葉が、今の私の中にはございませんでしたから。
ただ、荷箱の縁に触れているエルネスタ様の指を見て、扇子の骨を静かに握りました。
礼拝堂では今ごろ、マルタ様が署名欄の整理を始めているはずです。奇跡水の記録、神託婚仮承認の停止文書、そして黒百合商会の納品台帳。
あの台帳には、まだ名前がございます。
署名欄に刻まれる商会名が、この事件の次の扉を開けるのだと、私はすでに知っておりました。




