第23話 奇跡ですと笑った方、署名をどうぞ
「奇跡ですと笑った方、署名をどうぞ」
私がそう申し上げると、ロイス・カントの笑みは、水面に落ちた墨のように崩れました。
治癒礼拝堂の薬棚には、小瓶が整然と並んでおります。白百合香油、清め水、巡礼者用の薬草煎じ。けれど、その中に一列だけ、ラベルのない瓶がありました。透明な水。白百合に似た甘い匂い。そして、底に沈む黒い粉。
ロイスは先ほどまで、たいそう穏やかに笑っておりました。
「奇跡水でございます。病を鎮め、御心を安らかにし、神託婚の朝を穏やかに迎えさせるためのものです」
病を鎮める。
御心を安らかにする。
穏やかに迎えさせる。
どの言葉も、エルネスタ様の「嫌だ」を遠ざけるために使われておりました。
私は署名紙を差し出しました。マルタ様はすでに三枚用意しておられます。
「三枚も?」
ロイスの声が、初めて少しだけ乾きました。
「奇跡が多かったので」
マルタ様は真顔です。
イザーク様が咳をして、笑いを飲み込みました。けれど、その直後、薬棚の奥で小さな黒い封筒が見つかり、空気はまた冷えました。
封筒には商会名がございません。ただ、黒百合に似た押し跡が1つ。
「これは、薬草商の印です」
ロイスが早口で言いました。
「あら。では薬草商名を、正式に記録いたしましょう」
「記録は……」
「奇跡と仰いましたわね」
私は署名欄を扇子の先で示しました。
「神の奇跡を名乗る水であれば、神殿への由来照会が発生します。薬草であれば薬師登録番号を。神殿由来であれば授与番号を。商会品であれば納品台帳を。どれでも結構ですわ」
ロイスの親指から、黒い粉が一粒、署名紙に落ちました。
白い紙の上で、それは小さな黒百合のように広がったのです。
ロイスは、署名紙をしばらく見ておりました。
30代なかばでしょうか。穏やかな目元に商人の如才なさを貼り付けた顔。細い顎、よく整えられた茶色の髭。ここへ来る前は、きっとこの礼拝堂で一番愛想のよい男だったに違いない。けれど今は、その笑みの下から別の何かが滲み出ようとしている。蝋燭の橙色が横から当たって、頬の筋肉の動きが、よく見えました。
「神の奇跡に署名など……野暮でございましょう」
「野暮でございますかしら」
私は扇子を膝の高さで静かに保ちました。
「では、花嫁ご本人がお目覚めになって、野暮とおっしゃるなら、照会は取り下げますわ。エルネスタ様に確認いたしましょう」
ロイスの肩が、わずかに落ちました。
窓の外から、早朝の鳥の声が届きます。礼拝堂の石壁は厚く、でも夜明け前の空気は隙間を選びません。床石が冷たく、白百合香油の甘い匂いと混ざって、部屋全体が奇妙に静まっております。
「由来照会番号が、ございますか」
私が再び問いかけると、ロイスは答えませんでした。
薬棚の列の向こうで、アルベリク様が動かれました。祭服の裾が、石床を一度だけ鳴らす。金色の瞳は壁の一点を見ておられる。肩布の縁を親指でなぞる仕草が、静かに止まりました。何かを決められた時の所作です。
「神の名を商った水なら、神殿に照会される覚悟もおありですわね」
低く穏やかな声でした。怒るほど祈祷文のように平らになる声。
ロイスの口元が、引き攣りました。
マルタ様が砂時計を一瞥されます。
「残り11分です」
「11分」
イザーク様が喉の奥で呻きました。若い神官は今朝から幾度、残り時間を聞いたでしょうか。
「ロイス様」
私はロイスへ向き直りました。
「由来照会番号はございませんね。薬師登録番号も、神殿授与番号も。ならばお選びいただく欄は、一つ残っております」
署名紙の一番下の欄を、扇子の先で示しました。
商会名、納品品目、支払い日付。
ロイスは長い間、その欄を見ておりました。廊下から風が入って、薬棚の小瓶が微かに触れ合う音がした。羽ペンを持つマルタ様の手が、静かに待っている。
「……黒百合水、と」
独り言のようでした。けれど、石床の礼拝堂はよく音を伝えます。
「商会名を、ただいまお聞きしてもよろしいですか」
マルタ様が羽ペンの先を正しながら、落ち着いた声で問いかけました。
ロイスは目を伏せました。
「……黒百合商会から、仕入れました」
礼拝堂が、静かになりました。
みなが息を止めたのです。イザーク様が小冊子を胸に抱き直している。アルベリク様の肩布が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。私は扇子の骨を指の腹で押さえ、声が出るまで待ちます。
「黒百合商会。記録しました」
羽ペンが紙を走る音だけが、静かな礼拝堂に響きました。
その音が、ロイスにとって刃の音だったことは、彼の顔が教えてくれました。穏やかな商人の顔が、もうどこにもない。商会から切り捨てられた者の顔が、代わりにある。
「神官長様」
私はアルベリク様へ向きました。金色の瞳が、静かにこちらを見ている。
「封筒の押し跡と黒百合水の照合を、本殿へお送りいただけますか。ロイス様の御署名と合わせて」
「処理します」
短く、確かな声でした。
「イザーク様」
「はいっ」
若い神官は返事と同時に一歩前へ出ておりました。柔らかい茶髪が、蝋燭の光で少し橙に染まっている。
「鐘楼の受領印を確認してください。鐘守が昨日の日付で何かを受け取っていれば、買収の痕跡になります」
「分かりました、すぐ」
廊下へ走る足音が遠ざかりました。若い神官の焦りは、いつも廊下の空気ごと動かします。
部屋に、静けさが戻りました。
私は窓を一瞥しました。東の空が、ほんのりと白み始めている。藍から薄灰へ、まだ夜明けと呼べない曖昧な色。祝福鐘まで、もうわずかです。
アルベリク様が封印検査札を黒い封筒へ押しつける音が、小さくしました。私は視線を戻しません。この部屋に香油の匂いが満ちていて、エルネスタ様に飲まされ続けた液体の残滓が、まだそこここに漂っている気がいたします。
その時。
廊下の奥から、陶器の割れる音がしました。
昨夜も聞いた方角でした。花嫁支度部屋の方から。
「エルネスタ様」
マルタ様が立ち上がります。私の足もすでに動いておりました。署名紙をマルタ様へ預け、扇子を閉じます。廊下は薄暗く、夜明けの空気が床石から冷えて這い上がってくる。
走りながら、私は考えておりました。
ロイスの言葉が、ぜんぶ、エルネスタ様の「嫌だ」を消すために並んでいた。病を鎮め、御心を安らかにし、穏やかに迎えさせる。どれほど美しく揃えても、本人の声の代わりにはなりません。
扇子の骨を、掌の中で押さえます。
花嫁支度部屋の扉が、少し開いていました。細い明かりが廊下へ漏れている。床には清め水の杯の破片が白く散り、水が石床を濡らしている。誰かが払いのけた痕跡でした。
私は扉を押して、中を見ました。
エルネスタ様が、寝台の上で上体を起こしておられました。
淡い栗色の髪が乱れ、白い寝衣に婚礼用ヴェールが重なっている。頬には薄く血の気が戻り、乾いた唇はわずかに開いている。喉元に細い指を当て、窓の薄明かりの中で、焦点の定まりかけた瞳が、こちらを見ました。
足元に、荷箱。
フォルケン家の紋が入った嫁入りの荷箱。父侯爵が婚礼の朝に持たせるはずだったもの。
その底板の隙間から、古い革靴の踵が、わずかに覗いていました。
◇
廊下の向こうで、鐘楼へ走ったイザーク様の足音が引き返してきます。
「ヴィオレッタ様! 鐘守の受領印が、昨日の日付です!」
声が、礼拝堂へ響きました。
アルベリク様が私の隣に立っておられました。いつの間に廊下へ出ておられたのか、気づきませんでした。金色の瞳が、荷箱の底板を一瞬だけ見た。それから、エルネスタ様を見る。
誰も口を挟ませない沈黙が、静かに部屋を満たしました。




